ポテトとサルバドーラ

海外文学の読書感想文

<番外編>『ヒロシマ・ノート』大江健三郎

2023年が終わった。去年は本当に信じられないことが色々とあり、多忙な1年だった。あまり本も読めず、感想を書くまとまった時間も取れずにいたが、1冊だけ簡単に記録しておきたい。

 

本書は大江健三郎による広島と原子爆弾を巡るノンフィクションである。原爆投下後の惨状の中で広島の医師たちは、医師としてどのように振舞ったのか。その記録が非常に印象的で、示唆深かった。

 

原爆投下直後の広島の医師たちは、自分自身も怪我をした状態で患者のいる場所に向かった。しかし、彼等が医師として被爆した人々を救うことは、ほとんどの場合かなわなかった。物資があまりにも不足していたし、医師自身も被爆し、満身創痍で治療に当たっていた。治療に励みながら、被爆数日後に自らも命を落とした医師もあった。

 

そのような鉄の使命感を持っていた医師たちがどんな様子だったか。それを表現する言葉が「鈍い眼」であることが私の関心を引いた。

 

限界状況の全体の展望について明晰すぎる眼をもつ者は、おそらく絶望してしまうほかないだろう。限界状況を、日常生活の一側面としてしか、うけつけない鈍い眼の持ち主だけが、それと闘うことができるのである。鈍い眼という言葉は補足しなければならない。あえて鈍い眼によってしか限界状況を見まいとする態度こそが、これらの状況において絶望せず、人間的な蛮勇を可能ならしめるものなのだから。しかもこの眼の鈍さは、忍耐力によって支えられている鈍さであり、その背後に灼けるように激しい明察をひそめているものでもあるのだ。(pp.128-129)

 

しかし、目の前の焦土に青草が生えればそれを信じる。そして新しく異常があらわれるまで絶望的な想像力を停止する。それより他に、限界状況に屈服しないで日常生活の平衡をたもつ生き方はない。広島で真に人間的に生きるやり方はない。数十年も緑の草が生い茂る希望がない土地で、人間が、こまごました小さな努力をつみあげてゆく気力をもつことができるだろうか、しばらくは草の未来について楽観主義者となるより他に(pp.129-130)

 

アルベール・カミュ『ペスト』で市井の人々がペストと戦った精神的態度は、これと重なる。

 

もうそろそろ若者とは呼ばれなくなる年齢にさしかかる自分が、果たさなければならない社会的な使命を全うしていくために不足している何かを、広島の医師達に見た思いだった。

『夜になるまえに』レイナルド・アレナス

ぼくは一度として自分を左翼とも右翼とも見なしたことがないし、日和見主義とか政治的にはこれこれといったようなラヴェルを貼られて分類されたくもない。ぼくはぼくの真実を言う。ちょうど人種差別に苦しんだユダヤ人、あるいは、ソ連の強制労働収容所にいたロシア人、あるいは物事をありのままに見るための目を持っている人なら誰もがするように(p.388)

 

 

レイナルド・アレナスの自叙伝『夜になるまえに』を読む。訳あって入院していたのだが、痛い身体をなんとかしてでも読みたくなるような素晴らしい本だった。

 

著名なラテンアメリカ文学の作家の中で、アレナスほど貧困と差別と弾圧の辛酸を舐めた人物はいないのではないかと思う。多くの他の作家たちが裕福で教養のある家庭に生まれ、大学教育を修了している一方で、アレナスはキューバの寒村に生まれ、およそ文学や芸術とは程遠い極貧の幼年時代を過ごしている。成人してからも、カストロ政権下で同性愛者として、作家として弾圧を受け、食べる物にも事欠く生活を送り、アメリカに亡命した後も資本主義に裏切られ、結局豊かな暮らしはできなかった。そこから、独自の世界観や文体を打ち立て、こんなに心を揺さぶる作品を残したのだと思うと、胸が熱くなる。

 

私の大好きな『夜明け前のセレスティーノ』は一見滅茶苦茶に思える作品だが、その荒唐無稽さに重みを与えている作品全体に通底する悲しみの背景が見える気がした。

 

アレナスは囚人同士が殺し合う人間性が徹底的に剥奪された獄中生活を強いられた後でも、貧窮に陥ることになっても、絶対に書くことを止めなかったし、性的な悦びを享受することを止めなかった。アレナスは、自分の命を危険に晒しても、自分の感性に率直であることを選んで生きたように思える。

 

カストロ政権下で作家が生き残る途は、カストロの側に立って体制を礼賛する作品を書くか、拷問の末転向をさせられて作家としての魂を抜かれるか、亡命して故郷と切り離されて生きるか、自殺するかという過酷なものだったが、アレナスは肉体がエイズに侵され、もはや書くことに堪えられなくなり自殺するまで、とにかく様々な工夫や幸運によって生き延び、そして書き続けた。

 

ラサロは書きたがったが書けなかった。二、三行で紙を放り投げ、力なく泣いた。一ページも書けなくたっておまえは作家だよ、とぼくが言うと、ラサロは元気を出した。ぼくに書き方を教えてもらいたがっていた。でも、書くことは職業ではなく呪いみたいなものなのだ。いちばん怖いことは、ラサロがその呪いに憑かれているのに精神状態が書かせなくしていることだった。白い紙の前に坐り、書けない無力感から泣いているのを見たあの日ほどラサロが愛しかったときはない(pp.334-335)

 

性的悦びというのはたいていひどく高くつくものだ。ぼくたちが味わう悦びの一分一分に対して、遅かれ早かれ、その後、何年も苦しむことになるのだ。それは神の復讐ではなく、美しいものすべての敵である悪魔の復讐なのだ。美しいものというのはいつも危険なものである。光を運ぶ者はひとりぼっちになる、とマルティは言った。ぼくなら、美を実践する者は遅かれ早かれ破滅する、と言うだろう。大いなる人類は美に耐えられない。たぶん美なくしては生きられないからだ(p.264)

 

『夜になるまえに』も、アレナスの他の作品も、どん底の過酷な状況を描いているのになぜか笑える場面があり、そこには実在しないはずの世界を逃避所として現前させる力がある。アレナスの自由奔放な想像力や、ユーモアへの信頼がそれを可能にしている。

 

祖母が死んだとき、ぼくにとっては一つの宇宙が死んだ。なんでもない話の最中に、話をやめて神を呼びだしはじめる、そんな人間と話をする可能性が祖母とともにすっかり消えていった。一つの知恵が、人生に対するまったく違った知見が消えていった。祖母の顔とともに魔女や幽霊、妖精たちからなる一つの過去全体が消え、ぼくの人生の中で最良のものであった幼年期全体が消えていった。その顔を見ながらぼくは泣きたかった。でも、泣けなかった(p.305)

 

暴政の何がいちばん嘆かわしいかと言えば、その一つはすべてを真面目にとり、ユーモア感覚を消し去ることだろう。歴史的にキューバは風刺や嘲笑のおかげで現実からいつも逃げてこられた。しかし、フィデル・カストロとともにユーモア感覚が消えていき、やがて禁じられてしまった。そのためキューバ人はわずかしかない生きのびる手段の一つを失くすことになった。笑いを奪ったとき、物事に対する最も深い判断力を国民から奪ったのだ。そう、独裁は取り澄ましたものであり、もったいぶったもの、そして、完全に退屈なものなのだ(p.315)

 

本作の中で、カストロと近しかったマルケスをアレナスは激しく糾弾し、マルケスよりも素晴らしい作家の作品がカストロによって多く闇に葬り去られたと言っている。あのマルケスよりも素晴らしい作品を残せた作家!そういう作家の作品が独裁政権によって永遠に消されたのだと思うと、とても悲しくなる。

『蜘蛛女のキス』マヌエル・プイグ、『モレルの発明』アドルフォ・ビオイ=カサーレス、『精霊たちの家』イサベル・アジェンデ

最近全然更新をしていなかったので、割と最近読んだ本の感想を3冊まとめて書こうと思う。意図した訳ではなかったが、気が付いたらラテンアメリカ文学ばかり読んでいた。

 

『蜘蛛女のキス』マヌエル・プイグ

 

ある事象についてリベラルな考えを持っている人は、他の事象についても同じようにリベラルである、と無意識的に考えてしまうことがある。

しかし、例えば、自分自身も含めた社会運動(とりあえずここでは個としての自由や権利の拡張を目指す政治的活動をざっくり指す)に関心を持つ人々の心の中にも、内面化された保守性が維持されている領域があることに時々はっとする。

 

リベラルであることを是とする価値観を共有していると、そういう自分の中の保守性を発見し、じっくり検討するということがなかなか難しいと感じる場面が多い。

 

『蜘蛛女のキス』は、ブエノスアイレスの刑務所で同室となった革命家の青年バレンティンと、性表現が女性であるゲイのモリーナが自分の過去、価値観、好きな映画のストーリー等について延々と繰り広げる会話で構成されているのだが、これがすごく面白かった。

 

バレンティンは、ゲリラ仲間の「強い女」よりも、いわゆる普通にモテるタイプのジェンダーロールにばっちりハマった女が好きで忘れられない。政治的にはリベラルを目指していても、自分が性的な魅力を感じる対象という点では、その唾棄すべき保守性を乗り越えることができない(現実にもそういうことはよくあることだ)。

 

そして、セクシャルマイノリティであるモリーナは、自分にとって自然に装ったり振る舞ったり愛したりするだけで文化的規範に逆らうという意味でリベラルな人間であるが、主観的には政治には関心がないし、「男に支配されることに喜びを感じる」という保守的な男女観に拘束されている。

 

この2人が、暇を持て余す獄中生活において心を通い合わせることで、それぞれが拘束されている保守性に揺さぶりを掛け合う。そして、それを乗り越えられそうなところまで行く。しかし、内面化された規範の強固さはそんなにやわなものではないことは、読んで知るべし。

 

内面化された保守的な規範はそもそも変更を加えるべき対象なのか。無理に価値観の変容を求めると結局何かを強制されるという状況は変わらず、個としての自由は損なわれるのではないか。しかし、その内面化された規範が罪のない誰かを苦しめるものであれば、自分の中にあるそれをそのままにして生きていくことで価値の再生産することが果たして誠実と言えるのか。話題は尽きず答えは出ない。

 

 

『モレルの発明』アドルフォ・ビオイ=カサーレス

初めて読んだ時、その息が詰まるような絶望的な美しさに魅せられて棺本候補(死んだ時に棺に入れてもらいたい本)に上がった本を再読。

 

水声社の本は過疎地に住む身分では若干買いにくく、初回は図書館で借りて読んだのだが、この前東京に行った時に友人が連れて行ってくれた下北沢の独立系書店に置いてあり脊髄反射で購入。他にも文体を確認してから購入したいと考えていた本がずらりずらりと並んでおり、こんな場所にすぐに行ける人たちがいるのだと思うと心底羨ましかった。

 

久しぶりに『モレルの発明』を読んで、相変わらず無人島の自然の眩しさと、極限的な孤独のコントラストの美しさに胸が苦しくなった。

 

主人公は何らかの重罪によって終身刑を宣告され、国から逃げて、怪しい船乗りを頼ってこの無人島に上陸した。そこで獣のようなサバイバル生活を送るのだが、廃墟と化した丘の上の博物館に観光客の集団がいることに気がつく。初めは彼らに絶対に見つからないように生活することに苦心するのだが、主人公はその中の1人の女性フォスティーヌに恋をしてしまう。思いを抑えきれなくなり、勇気を出してフォスティーヌに話しかけるのだが、フォスティーヌには自分が見えていないことが分かる。そこから、この島で起きている奇妙な現象の全貌が少しずつ明らかになる。

 

(ネタバレを避けるために細かいことは省略するが)自分が他人からこう思ってもらいたいという自分の虚像を作り上げ、それを提示したり、演じたりすることで、承認を集める行為は昔も今もずっと行われてきたことだ。

 

しかしそれは、そうして集めた承認を認知する主体(=自分の意識)が存在して初めて意味を成すものだと私は思っていた。それに対して、本作の主人公は、認知する主体としての自己の意識と引き換えにしてでも(つまり自分が死んだとしても)、幸福に見える外面を永久に保存することを望む。

 

私はこれを狂っていると思ったのだが、この話をある知人にしたところ、彼はあり得なかった幸福が描かれた絵画や、異世界転生系ストーリーの類を例に出し、「パラレルワールドに生きる自分を永遠に幸福にすることで、こちら側にいる死んだも同然の惨めな生を送る自分をも救済したいという心理はむしろ普通」というようなことを言っていて、なるほどと思った。

 

 

『精霊たちの家』イサベル・アジェンデ

南北アメリカ文学に詳しい友人に勧められて読もう読もうと思っていたが、長期の休みに入ったのでようやく読んだ一冊。

 

マルケスの『百年の孤独』と重なる設定が色々と出てくるのだが、単なるコピーでは全くなく、衝撃的な面白さのエピソードの連発で、それなりに長い作品なのに倦む時間が無かった。

 

前半は亡霊、予言、テレパシー等々のラテンアメリカ文学お家芸が炸裂する。ここで描かれるエピソードがとにかく全部面白い。

 

私が特に好きなエピソードは、神憑りのクラーラが、小作人を相手に女性の権利について教授していたところ、クラーラの夫が「男の威厳を蔑ろにするのは許さん」と怒鳴り散らし、ひとしきり荒れ狂って一息ついた瞬間に、「あなたって、耳を動かすことができるの?」と聞いて夫を絶望させる話。南米のマチスモ(男性優位主義)と、マジックリアリズムの対峙を見る思いで笑った。

 

後半は国の動乱に一族が翻弄される。チリの独裁政権を扱う作品は、ロベルト・ボラーニョの『チリ夜想曲』くらいしか読んだことがなく、あまりよく知らなかったのだが、軍部によるクーデターの進行、暴力の横行、民衆の生活の変容、その中で人々が何をよすがに生きたのかがリアルに伝わってきた。

 

海外文学に興味を持った人が、あまりにも有名であるという理由で『百年の孤独』から読み始めると、二度とガイブンに手を出さなくなると聞いたことがあるが、『百年の孤独』よりは『精霊たちの家』の方が読みやすく、楽しみやすいかも知れない。

 

そういえば、4月に出た村上春樹の新刊『街と、その不確かな壁』に、『コレラの時代の愛』からの引用が沢山されていて嬉しくなった。久々にマルケスでも読もうかなと思った。

『本当の戦争の話をしよう』ティム・オブライエン

結局のところ、言うまでもないことだが、本当の戦争の話というのは戦争についての話ではない。絶対に。(p.140)

 

 

つい最近まで体調不良をきたすほど忙しかったのだが、先日ようやく一旦の区切りがつき、何か月も前に読んだ本の感想をようやく書ける心理状態になった。本作を読んだ時も既に相当忙しかったのだが、うっかり読み始めてしまったところ、これはどうしても読まなければならない本なのだと判明し、無理やり時間を作って読んだ。

 

本作は、ティム・オブライエンが自身のベトナム戦争の従軍経験を元にして書いた短編集である。フィクションの体裁を取ってはいるが、主人公の名前が作家の名前と同一であり、かなりのレベルで事実に依拠したものでありそうだ。

 

本作は、一貫して戦争の話をしている。しかし、それはいわゆる「戦争」の話ではない。オブライエンの語る戦争の話は、一人称で語られる徹底的に個別的な戦争の話である。

 

オブライエンは、明確なポイントや、分かりやすい教訓があれば、それは戦争の話ではないという。

 

本当の戦争の話には一般法則というものはない。それらは抽象論や解析で簡単にかたづけられたりはしない。たとえば戦争は地獄だという。教訓的な声明としてみればこの言うまでもない自明の理は完全に言うまでもなく自明に真実である。でもそれが抽象であり一般論であるがゆえに、私としては心の底からはそいつを信じることができない。(p.129)

 

戦争は地獄だ。でもそれは、物事の半分も表してはいない。何故なら戦争というものは同時に謎であり恐怖であり冒険であり勇気であり発見であり聖なることであり憐れみであり絶望であり憧れであり愛であるからだ。戦争は汚らしいことであり、戦争は喜びである。戦争はスリリングであり、戦争はうんざりするほど骨の折れることである。戦争は君を大人に変え、戦争は君を死者に変える。(p.133)

 

冒頭の引用の“戦争”という部分に、自分にとって切実な何かを当てはめて読んでみて欲しい。無限のディティールの集積でもってしか、できない話というものがある。

 

 

戦争を一般化して語るという営みは、政治的な運動をつくる上では役に立つことであるかも知れない。戦争に限らず、個別的な問題を一般化し、連帯することなしに、人は今となっては当然となったどんな権利も得られなかった。このように人は集団化することで力を得て、自由と平等を勝ち得てきたのだが、「正しさ」の名の下にできた集団の中に暴力性が潜むことは様々な歴史が教える。フランス革命も、日本の学生運動も、正しい目的の下に組織され、段々おかしくなっていき、多くの人を殺した。

 

戦場におかれた人間に、正しい行為をすることはおよそ期待できない。戦場とは、少しでも油断すると撃ち殺される場所であり、自分が生き残るために他人に対してありとあらゆる罪を犯す場所でもある。でも人は、正しい人間でありたい、という思いから逃れることはできないし、正しくあることを放棄するべきではない。国家によって押し出される形で戦争に参加し、死を免れるために相手を殺すしかなかったという「正当な理由」があると客観的には見えたとしても、主観的にもそう納得して生きていける人ばかりではない。

 

オブライエンは自分が殺した一人のベトナムの青年のことを書く。どんな青年だったのか細部まで夢想する。そして、もし自分があの瞬間に手榴弾を投げなかったら、有り得た別の物語を想像する。

 

今でもまだ、私はそれを整理し終えてはいない。あるときにはあれは仕方なかったんだと思う。あるときにはそう思えない。普通に人生を送っているときには、私はそのことをあれこれ考えたりしないようにしている。でもときどき、新聞を読んでいたり、部屋の中に一人で坐っていたりするようなときに、私はふと目を上げて、朝霧の中からその若者が現れるのを見ることがある。彼が私の方に歩いてくるのが見える。彼の背中は僅かに猫背気味である。彼の頭は片方にかしいでいる。私の前数ヤードのところを彼は歩き過ぎていく。そして何か考えてふっと微笑む。それから道を歩きつづけ、そのまま霧の中に消えていく。(p.221)

 

私は、この曖昧で、贖罪らしい贖罪が見えない、どこまでも個人的な思索の中に、集団的な暴力との決別の契機を見る。それは、修復できない被害に対しての、せめてもの加害者の「正しさ」の在り方である。

 

人は徹底的に個としてものを考えるときに、加害という事実について、それぞれが固有のやり方で向き合うことができる。そして、この固有性が、暴力性(≒集団性)から、その人を引き離す。

 

そういう意味で戦争という構造の一部として犯した罪を、万人に共感される分かりやすい言葉や物語をもってして贖罪とすることは、無個性なパーツとして人間をなぎ倒していく戦争によく似た危うさがある。

 

戦場に立ったことがなくても、人は生きようとするだけで、意図しなくても他者を傷つけてしまう。直接的な殺人を犯さなかったとしても、様々な次元での罪の上に生はある。そして、その加害の宿命の中で、修復できない被害に対してせめて「正しく」罪と向き合う人は、容易には周囲と溶け合わない(合えない)、固有の存在になっていく。オブライエンの姿のみならず、様々な加害者の物語を読んでもそう思う。決して一般化できない領域において、全くの個として犯した罪と向き合うことに、暴力のシステムから一時でも抜け出す契機があり、そこに加害者を照らすわずかばかりの希望があると思う。

『青い野を歩く』クレア・キーガン

また素晴らしい本に出会ってしまった。

なんという繊細さ、なんという深み。

 

アイルランドを舞台にした短編集。全ての作品に儚い情景の美しさと、どうしようもない現実を引き受けて生きる人間の強さを感じる。特に印象深い作品について書きたい。

 

■「青い野を歩く」

もし、まばたきをしたら、神父は彼女の手を取って、ここから連れ去っただろう。…それは彼女がかつて望んだことだったが、人生のある時点で、ふたりの人間が同じことを望むことはまずない。人として生きるなかで、ときにそれはなによりつらい(p.42)

 

本作は、ある神父が、自分がかつて愛した女性の結婚式を執り行うシーンから始まる。神父は彼女ではなく、信仰の道を選んだ。それを後悔してはいないが、彼の胸の中に様々な思いが吹きすさぶ。

 

だれかに触れられたのは三年ぶりで、他人の手のやさしさに彼ははっとする。どうして、やさしさのほうが怪我より人を無力にするのだろう?(p.47)

 

恋愛という劇物に翻弄された後で、人はどうやって日常を取り戻して生きていけるのか。

本作の神父は、ある中国人のマッサージ師に出会い、自分の中の固い何かから自由になる経験をする。恋愛の最中は、相手との関係性にばかり心を奪われて、自分自身のことが蔑ろになる。そんなときに、身体性に目を向けることは、日常に戻るために契機となる。そして、恋愛の激情に吹っ飛ばされた日々の何気ない生活や仕事が、本人を再び支え始める。

 

■「森番の娘」

金と体裁にしか興味がない男と、「結婚」がしたかった女の夫婦生活の話。フォークナーの『アブサロム!アブサロム!』を彷彿とさせるモチーフが散らばり、いつか何かが起こるぞという不穏な空気が漂う。

 

とにかく夫婦には会話がない。いや、会話はある。心を通じ合わせるために、本当に必要な会話だけがない。

 

言葉が話せなくてよかったとジャッジは思う。どうして人間は会話せずにはいられないのか、彼には理解できない。人間は、話をするとき、自分たちの暮らしをよくするとはとても思えないむだなことをいう。言葉は人間を悲しませる。どうして話すのをやめて抱き合わないのだろう(p.105)

 

このごろでは、夢を見ることがだれかに話すかわりになっている。彼はマーサを見る。妻は熟睡しており、青白い乳房が寝間着の薄い木綿地に押しつけられている。今、妻を起こして夢の話をしたい。ときどき、妻をこの土地から運び出して、心に思っていることを話し、最初からすっかりやりなおしたいと思う(p.108)

 

最後には二人の不幸な結婚生活の唯一の代償だった「形」までもが失われてしまう。結婚という重い枷から彼等が自由になる訳ではないが、廃墟から再び一緒に歩き出す姿には希望を感じた。

 

この二つの作品の他にも、「別れの贈りもの」、「クイックン・ツリーの木」など素晴らしい作品が収められている。静かな場所で、一人で読みたい。

『わたしの全てのわたしたち』サラ・クロッサン

最近、ご縁があって、ある書店の選書の仕事をしている。人生で初めて「テーマに沿って本を選ぶ」ということをしているのだが、この作業によって読書の幅がぐっと広がっていき、とてもわくわくしている。今回のテーマは「他者」。本を探すために書店の棚の前で真剣に帯を睨んでいたときに出会ったのが、サラ・クロッサン『わたしの全てのわたしたち』だった。

 

 

訳者に最果タヒの名があり、詩人が翻訳?と思ってパッと手に取ったら、なんと内容が、結合性双生児のティーンエイジャーの日記風の散文詩だった。金原瑞人が訳をして、最果タヒが書き直したということらしい。そしてこれが本当に、面白かった。

 

いわゆる「普通の人」と著しく異なる特徴を持つ人たちに対して、私たちの想像力や関心は時に歪な形をとる。そして普通よく知らない相手には、決してしないようなことをしたり、聞かないようなことを尋ねたり(本書の例なら、子宮が何個あるか聞く、遠くから隠し撮りする等)してしまう。その結果、両者の関係性も歪なものになっていく。そしてその居心地の悪さは、多くの場合、多数派には一瞬の出来事であり、少数派にとっては日常茶飯事となる。

 

主人公は坐骨結合体双生児の一人である16歳のグレース。腰から下の身体を、ティッピと共有している。

 

彼女たちは、身体の一部を共有し合い生きているということにおいては特殊な経験をもっている一方で、他の部分では、SNSを使いこなし、酒もたばこもやってみたいし、おしゃれもしたいし、恋もしたい、普通の10代である。

 

そんなグレースの目線で紡がれる言葉に、何度も揺さぶられる。

 

入院したとき、見たもの。顔が半分溶けた男の子、鼻が取れて、耳もベーコンみたいにぶら下がっている女の人。こわいとおもった。おもったけれど、それを醜いって誰かが言うとしたら信じられない。そんな、残酷なことを言う人間に、私は絶対なりたくない。

 

だけど、わかる。

ティッピ。みんな、グロいって、私たちのこと、思っているよね。離れて、全身を見るともうほんとグロい。ふたりだった体が、急に、腰のところでひとつになるの。(…)

 

私たち、決して、みんなと同じではない。

でも。

だから?

だから醜いの?(p.45-46)

 

私には聞こえた。誰かの言う真剣な、ふざけてもからかってもいない、心からの言葉。

「あれ以上の不幸って、ないと思うの」 

 

私は、100個は言えると思った。

 

この体で生きること、ティッピと一緒に生きること、それより辛いことなんて、100個だって10000個だってあると思った。(…)

 

児童虐待、食糧不足、大虐殺、干ばつ。毎日、ニュースから流れてくる不幸な人たち。その人たちと入れ替わりたいなんて、絶対思わない。私の体はそれよりもずっと不幸、なんて言えるわけがない。(pp.105-106)

 

グレースの目から見る世界に、なるほどと思わされ、自分の死角が照らされていく。でも、だからといって、身体がくっついた状態で生きることがどういうことなのかは、やはりよく分からない。グレースが「たった一人で生まれて、たった一人で生きるなんて、リアリティがなさすぎる」と思うのと同様に、ずっと他人と身体を共有しながら生きることには、依然として私にはリアリティがない。

 

自分とは異なる人間を理解しようとすることは、誰が相手でも本当に難しい。それは、相手がマイノリティだろうが、そうでなかろうが同じだ(両者の差異は、理解の難易度というよりは、むしろ理解の失敗がもたらす結果の暴力性だと思う)。

 

「理解とは、誤解の総体にすぎない」と村上春樹は言ったが、本作の著者であるサラ・クロッサンは自身が結合性双生児なのではなく、結合性双生児について本やドキュメンタリーを通じて学んだ事を下敷きにしてフィクションとしてこの本を書いた。そういう意味で、本作そのものが「誤解の総体」なのかも知れない。

 

私たちが、自分とは異なる人格を持つ一人の人間を前にして、相手を「理解」しようとする行為が、すべて「誤解」に終わる世界にあって、私たちにできることはなるべく誠実であることだけだ。

 

結局、いくら他者のことを学んでも、我々は他者の地雷を踏み続けてしまうし、同様にして自分の地雷も相手に踏まれ続ける。でも、その爆発と大けがの後で、なお関わりを捨てたくないと思う相手は、どんな人だろう。私はそれは、「理解」という失敗が約束された試みを、とにかくやめない人なのではないかと思う。そして、そういう精神的な在り方を誠実と呼ぶのだと思う。

『勝手に生きろ!』チャールズ・ブコウスキー

私の中には、とにかく真面目に、向上心を持つように方向付ける装置が内蔵されており、それがあまりにも自然な状態なので、そういったシステムを抱え込まないことの「軽さ」について想像するのが難しい。

 

ブコウスキーの仕事や人生に対する態度は、それとほとんど対極に近い場所にあって、読んでいて感心する。こんなにも軽い身体、軽い思考。

 

勝手に生きろ! (河出文庫)

勝手に生きろ! (河出文庫)

 

 

 『勝手に生きろ!』は、ブコウスキー20代を描いたとされる作品で、主人公のチナスキーは、酒と女とギャンブルに浸り、小説を書いては編集者に送る生活をしている。カネがないから仕事も時々してみるが、なにしろ「ただ仕事をするだけではなく、その仕事に興味を持ち、しかも情熱を持ってこなさなきゃならないと知ったのは、その時が初めてだった(p.14)」という有様で、業務中にサボるわ飲むわでクビになっては職を転々としている。

 

要はほとんど何の生産性もない生活を送っているということなのだが、この主人公は、それでいて、むしろそれゆえに、なかなか魅力的な男である。それは、彼が「まるごとそこにいる」から。

 

「あんた、まるごとそこにいるのね」

「どういう意味?」

「だからさ、あんたみたいな人、会ったことないわよ」

「そう?」

「他の人は10パーセントか20パーセントしかいないの。あんたはまるごと、全部のあんたがそこにいるの。大きな違いよ」

「そうなのかなあ、わかんないよ」

「あんた女殺しよ、いくらでもものにできるわ」(pp.171‐172)

 

チナスキーの口から出る言葉は、本人の実存をいつも虚飾なく表現する。自分の感性と行動がこんなにも一致している人間もなかなかいない。

 

チナスキーは、どんな美女に言い寄られても自分が「なんかやだな」と思ったら誘いに乗らないし、酒浸りの「おばさん」でも「なんかいいな」と思ったら何度もその人の元に戻る。

 

多くの人は、自分の感じたことと、実際に取る行動をこうも合致させて生きていくことはできない。それは、そんな風に率直に生きたら面倒なことになるからで、だからチナスキーは失業し、アル中になり、逮捕され、シラミをうつされ、常に貧乏暮らしをしている。でも、この物語の情景にやたら晴天が似合うのは、チナスキーの屈強なユーモアと、「おれは作家になりたいんだ(p.211)」という欲望のシンプルさと自明性ゆえだろうか。

 

過去にも未来にも、もちろん他人にも拘泥せず率直に生きる様に、自分が選んでいる価値観が何かだったのか照射される思いだった。