ポテトとサルバドーラ

海外文学の読書感想文

『ピンポン』パク・ミンギュ

■世界はいつも、善と悪とのジューススコア

「だから生存第一なんだ。僕らが死んだからって、僕らを殺した数千ボルトの怪物は発見されない。直列の電流を避けて、みんながとるに足りなくて、みんなが危険なこの世界でさ―だから生きなくちゃいけないんだ。自分の九ボルトを直列に利用されないかどうか警戒しながら、健康に、卓球をしながらね。」(p.172)

 

ピンポン (エクス・リブリス)

ピンポン (エクス・リブリス)

 

 

パク・ミンギュを初めて読む。文体が素晴らしく良い。

 

主人公の釘は、モアイと一緒に、計算高くてタフな同級生(チス)をボスとしたグループにいじめられている中学生だ。日常的な殴る蹴るの暴力、恐喝、パシリにされるなどはもちろん、陰湿な性的嫌がらせも受けている。さらに悪質なことにチスは、暴力と暴力の間に、友好的に接する時期を取ることによって、DVのように精神的に相手を支配しながら、いじめを継続していく。

 

釘とモアイからは殴られる毎に能動性がどんどん失われていき、チスから呼び出しが無い時は、むしろ退屈してしまう生活を送る。しかし、彼らはこんな風に無抵抗に激流を流れていくように見えて、目だけは絶対に閉じない。その状況に対して自分たちが無力であることを全面的に受け入れながら、冷めた目で状況を観察し、自分で考えることを決してやめない。2人は、自分たちの加えられる暴力は、世界の多数決によって、そのいじめを黙殺することで承認を与えている41人のクラスメイトや社会によって維持されていることを見抜いている。

 

DDTが、生物濃縮と食物連鎖によって極地まで行っちゃったんだ。すごくない?すごいね。つまりさ、エスキモーみたいに遠く離れたところの人間にも、人類のやったことの結果が集約されるってことだよね。だから実は君も、そして僕も、人類のすべてを表しているっていえるだろ。DDTを撒いた人間はその結果を知ってると思う?エスキモーは自分になぜそんなことが起きたかわかると思う?つまり人類って誰もが誰かの原因だし、誰かの結果なんだ。それをお互い知らないんだ。こんなことってあるかい?(p.81)

 

釘とモアイは、原っぱにおいてある卓球台との遭遇から、卓球を始めるに至る。卓球用品店の店主セクラテンから卓球を指南され、自分で自分のラケットを選ぶということは、初めて自分の意見を持つことなんだという言葉に刺激を受ける。

 

卓球というのは公平さの象徴として描かれる。卓球において、打つ球は自分の意見であり、打ち返される球は相手の意見であり、一方的に球を打つことでは卓球(公平な会話)は成立しない。

 

僕は初めて一つの意見になった。失礼ですけど、こういう意見を持つに至ったんです。これが僕の意見なんです。ネットの向こうへボールを返すたび、僕は心の中でつぶやいた、それはまるで祈りのようだった(p.231)

 

■いじめられる者の矜持

モアイがつぶやいた。人間ひとりの害悪は九ボルトの電流ぐらいだよね。それが集まって誰かを殺しもするし、誰かを傷つけもするんだ。それでみんな多数のふりをしてるんだ。離脱しようとせずにバランスをとって、平衡に、並列に並ぶんだ。それは長く生きようとする人間の本能だろ。戦争や虐殺は、そのエネルギーが直列に並んだときに起きる現象だ。戦争が終わった後にも数万ボルトの破壊者が残ってるか?虐殺をやったのは数千ボルトの怪物たちか?そうじゃないと思う。戦争が終わった後に残るのはみんな、とるに足りない人間たちだ。独裁者も戦犯もみんな、実は九ボルト程度の人間なんだよな。要は、人間のエゴは常にその配置を変えることができるってことだ。だから人間は危険なんだ。たかが四一人の直列でも、僕ら程度は感電死するんだから。(p.172)

 

世間には、「公平に会話をする」という彼らのささやかな矜持を見抜いて、評価してくれる人などほとんどいないだろう。乾電池一つ、九ボルトの影響力を持つひとりの個人として、決して直列には並ぶまいとする決意の持つ社会的な力は、それを維持する困難に対して、あまりにも小さいだろう。

 

しかし、そんな個人の小さな決意が、それぞれの持ち場で慎ましく維持されることによって、この世の善の総量が保たれている気がする。

 

自分の手で持って確認し、自分の責任で選んだラケットで、自分の領域において球を打ち返す(意見を表明する)。そんな取るに足らない営みが、1738345792629921対1738345792629920の善と悪とのジューススコアの戦いに、せめて善が負けないでいることを可能にしている。

『最後の物たちの国で』ポール・オースター

久しぶりのポール・オースター。仕事がつらいなあ、人付き合いはしんどいなあ、と思い悩むときの劇薬として使える、とびきり気の滅入る物語だった。これさえ読めば、今自分のいる場所は少なくとも地獄ではないんだと安堵できる。

 

最後の物たちの国で (白水Uブックス―海外小説の誘惑)

最後の物たちの国で (白水Uブックス―海外小説の誘惑)

 

 

 地球上の各所で今まさに起こっている様々な不幸を収集して、ひとつの地域に押し込んだような悲惨な世界の様相が書き綴られていく。壁によって厳重に閉鎖された世界、油断するとすぐに奪われ、殺されるような世界に、主人公の女性が兄を探しに行って帰ってこられなくなる。この物語は彼女が元恋人に送る手紙の形で書かれている。

 

 本作の暗さには、肌にまとわりついてくるような気持ち悪さがある。例えば、『すばらしい新世界』を(やや乱暴に)「ディストピア文学」として同列に並べて考えるなら、ハクスリーには、からっとした明るさみたいなものがあった。それは、あくまでそこで展開されるSF的ディストピアがまだ見ぬ未来のものである、という安心感からくる。それに対して、『最後の物たちの国で』は、とにかくじっとりと暗い。この暗さというのは、物語世界の不幸のありよう全てに感じる既視感にある。いわゆる発展途上国のスラムなんかを歩いているときに見たもの、物資に限りのある閉鎖された環境に生活したときに見たもの、新聞で自国の政治欄の中に見たもの、それを一つの時間と場所に収斂させるとこうなるだけの話なのではないか、という自分との「近さ」が心を不安にさせる。オーウェルの『1984年』も、『最後の物たちの国で』よりは、まだ遠い。

 

寝る前に読むと悪夢を見るので、日が出ているうちに読むことをお勧めしたい。

『地下室の手記』フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー

強烈な自意識を抱えた人間のたどる思考回路が、150年前と現代で大した違いがないというのは驚くべきことである。

地下室の手記 (光文社古典新訳文庫)

地下室の手記 (光文社古典新訳文庫)

 

 

本作は、地下室にひきこもった40歳の主人公が手記の形で自らの苦悩を吐露し、章を分けた後半で、地下室生活の契機となった、ある一連の出来事について告白するというものである。

 

「何のことを言っているのかは、よく分かる」という類の分析が随所で炸裂していて、つい声をあげてしまうほどの苦笑に襲われる。

 

ドストエフスキーの作品を読んでいると、自分の中にある他と繋がるべくもないと思っていた痛みなり想念なりと、ピシッと結びつくような言葉にしばしば出会う。そういう読書体験の積み重ねが、私にとってドストエフスキーという極端な作家を身近な人物のように感じさせているのかも知れない(ちなみに脳内での物事の展開のされ方についてはアレナスに強いシンパシーを感じている)。

 

そもそも自意識のある人間に、少しでも自分を尊敬することなんてできるだろうか?(p.33)

 

そして最後に、俺は退屈している。それなのに、いつもなに一つやっていない。(p.82)

 

俺は、ある昔の思い出にひどく苦しめられている。何日か前に俺はそれをふと、まざまざと思い出したのだが、以来それは、忌々しい音楽のメロディのようにつきまとってどうしても離れないのだ。(中略)実は俺には、そういう思い出が何百もあって、そのうちの一つが、折に触れて入れ代り立ち代り現れては俺を苛むのだ。(p.82)

 

支配欲と絡みあった歪んだ愛を持って娼婦リーザに近づき、自分から仕掛けたくせに、いざ彼女を前にすると自意識の不安に苛まれてヒステリーを起こし、我に返って「うわあ、気まずい」と思って居たたまれなくなるシーンなど、爆笑以外にない。しかし、そうしてひとしきり笑った後で、憐れみと共感がわき上がってくる。

 

俺にとって、愛することは、すなわち、相手に対して横暴に振舞い、精神的に優位に立つことを意味していた。俺は、一生涯、それより他の愛の形など、想像だにできなかった。そのあげくの果てに、今ではときには、愛とは、愛すべき存在から自発的に贈られた、その存在に対して横暴に振舞ってもいいという権利なのだ、とさえ考えるようになった。俺の地下室の空想の中でも、俺は愛と言えば、闘争としか考えられず、それは、常に憎しみから始まり、精神的な征服に終わるべきものだった。そしてその後は、征服してしまった相手をどう扱ったらいいものか、もはや見当もつかないのだ。(p.252)

 

地下室に立てこもっている、全ての私たちのために祈りましょう。

『異邦人』アルベール・カミュ

この作品を初めて読んだ時の恐怖を、忘れることはできない。自分にとって蓋然性が高いと思われる選択を行って、日々誠実に生きていると、突然死刑を宣告されるという展開があまりにも恐ろしく、眠ることができなくなった。色々と思うところがあり、久々に再読したが、こんなに薄い本なのに、再びそのテーマの重要性に打ちのめされ、途方に暮れている。

 

異邦人 (新潮文庫)

異邦人 (新潮文庫)

 

 

人は自分の価値判断や行動基準が、いわゆる「常識」の範囲内に収まっていると思って生活している。「普通」にしていれば、誰かに非難されたり、共同体から追放されたりせずに生きていけるのだと信じている。その基本的な社会や自分に対する信頼感によって、毎日の生活を安心して送ることができる。しかし、人生には、自分という人間の自然な流れに沿って取った行為によって、「普通」の群衆から自分が排除される瞬間が訪れることがある。その時、今までにこやかに好意的に接してくれていた人々が、正義の衣をさっと羽織って自分に対峙し、「裁き」を下す。そして「普通」の群から離れた一匹の羊として取れる選択肢は、多くの場合、罰を受け入れ、沈黙することだけである。

 

カミュはいつも精神衛生のために無いことにしていた恐怖を照射し、決して私たちを平穏無事な状態にしておいてはくれない。

 

物語は、母が養老院で亡くなり、葬式に行くところから始まる。主人公のムルソーは、母の死の翌日に女を作って海で遊び、コメディ映画を見に行く。その後、隣人の女性関係のトラブルに関わり、「太陽のせい(p.110)」で隣人の敵を銃で撃ち殺す。裁判では、ムルソーの、母の死への態度が常軌を逸して冷淡であるということ、とりわけ葬式で彼が涙を流さなかったことが、死刑を判決させる重要な証拠として機能していく。最後にムルソーは、自分が憎悪の叫びをあげる群衆に迎え入れられ、処刑されることを望む。

 

『異邦人』の意味することについて考えると、その難解さに立ち尽くしてしまう。カミュの作品全般に言えることであるが、水面に飛び出している部分から推測するに、そこには恐ろしく重大な全体が隠されていることが分かる。しかし、読書という体験を通じて得ることのできた言語化できる確信は、その広大な予感に対していつもお話にならないくらい小さい。

 

誰かの死を悼んで「泣く」という行為を評価することは、それぞれに固有であったはずの悲しみを束ねる暴力的なことである。愛する一人の人間が、自分の目の前から永遠に消えた。この重大な事実に、ひとりの人間が真摯に向き合おうとするとき、そのやり方は実に多様になるはずだ。その悼み方に主観的な真剣さが伴っていれば、一つ一つの弔い全てに尊重されるべき価値がある。しかし、ムルソーは、母の死に対する彼固有の供養の姿勢が、「常識」とあまりにも隔絶していたことによって、死刑の側に強く押されていくのである。

 

事柄や他者についての理解ににじり寄りながら、決して容易には理解しないという倫理があると思う。愛や死との向き合い方、隣人への評価、自分自身の行動の解釈、こういったものをムルソーは世間的な見解に寄り掛かることなく自分で考える。だから、とにかく考えるのが遅いし、結論の輪郭がはっきりしないし、時にとても投げやりに見える。ムルソーはあくまでも、自分という人間の感性のフィルターを通して考えたことしか信じない。愚鈍だけれども、私はそこに(結果的な)倫理の存在を感じる。

 

全身を倦怠に包まれ、この世において意味のあることはほとんどないのだ、と繰り返し述べるムルソーの脳裏に、死刑の寸刻前、「何人も、何人といえども、ママンのことを泣く権利はない(p.130)」という激しい思念が表出するシーンは印象的である。ムルソーは自身の死を前にして、母が最期の日々に抱いていたかも知れない思いが、ようやく理解できたように思えたのである。

 

しかし『異邦人』が一筋縄ではいかないのは、その「普通」からあまりにも乖離した倫理なるものの結果として、致命的な加害行為が導き出されるということを、どう考えるのかという問題にある。これが本当に悩ましい。

 

思うに、この世においても、信頼に足る人間とは、多くの場合、ムルソーのような「異邦人」である。その人の根底的で固有な感性によって、ものをまともに考えたとして、その結果がいつも「常識」的である訳がない。それぞれの誠実さの結果は、どこかしら歪なものになるし、それがばらばらに正しい。ちゃんとばらばらな結論を持ち寄らないと、世の中がどんなことになるのかについて、今更何も説明する必要はない。

 

しかし、その誠実さの結果によって人を殺したとして、それを私は一体どう考え得るのだろう。この辺りで途端に思考が行き詰まる。これは法律に則ってどのくらいの重さの罰を与えるかという次元の話ではなく、ひとりの人間が心の中でそっとつぶやくことしかできないような、その「犯罪者」に対する複雑な評価の問題である。

 

こうしてカミュは、私の眠れない夜を増やしていくのだ。

『舞姫タイス』アナトール・フランス

正義の罪深さをしみじみと考えさせたアナトール・フランス『神々は渇く』の感動を受け、本作を手に取る。『神々は渇く』のエヴァリスト・ガムランが革命のもたらす正義を狂信していたように、本作の主人公、修道士パフニュスは、キリスト教に対する排他的な信仰を固持している。しかし、それぞれの狂信者の迎える結末には、はっきりとした違いがある。 

舞姫タイス (白水Uブックス―海外小説の誘惑 (145))

舞姫タイス (白水Uブックス―海外小説の誘惑 (145))

 

 タイスは古代エジプトアレクサンドリアの高級娼婦である。彼女は親から見捨てられ、野良犬のように生きてきたが、怪しい老婆にその美しさを見出され、舞台芸の世界に入り、体ひとつでのし上がってきた。多くの男たちを魅惑し、巻き上げた金で贅沢な暮らしを送っている。しかし、その一方で自分がいつか若々しい美しさを失い、男たちから見限られることに恐怖してもいる。

 

厳しい修行生活を送る修道士のパフニュスは、10代の頃憧れた美貌の娼婦タイスのことをふと思い出し「彼女に神の道を歩ませなければ」という使命感に駆られ、アレクサンドリアに赴く。パフニュスはタイスを信徒たちのコミュニティに導きいれるも、タイスに対する性的な欲望と信仰に引き裂かれ、苦境に追いやられていく。

 

パフニュスは過酷な修行に耐え忍び、多くの弟子を従える名のある修道士であるが、宗教という高みからタイスをなじる様子は本当に見苦しい。自分の聖性を強調し、神の名を借りて「お前は汚い」と罵りながら、内心はタイスへの肉欲を果たせなかったことへのねじ曲がった復讐心に燃えている。パフニュスの「小物感」は、無神論者でありながら、独自の思索を深め、精神的な平穏の中に過ごしている男に食ってかかり、見事にあしらわれるシーンなどにもよく現れており、こちらも読んでいて非常に痛々しい。物語の最終場面で、タイスへの愛を告白するパフニュスは、苦渋に満ちた様子で描かれているが、等身大の「弱い」自己に向き合い、外部から取り込んだ価値観のソフト(この場合、「キリスト教」であるが、あらゆるイズムに読み替えられる)に依存することなく、自分の哲学を持って生きる契機を与えられたという点で私の目には救いに映る。

 

少し残念なのは、タイスの人物像がパフニュスの作りこみように比べて、平坦な感じがすることだ。私はタイスがいつ暴れだすか楽しみにしていたのだが、タイスは驚くほどあっさり信仰に向かって、病気になって死んでしまう。タイスが信仰生活の中に見出した平穏が、いかなるものであったのか知りたかった。

 

なんと、本作は1915年の水野和一訳から8つも日本語訳が出ているという衝撃。ちなみに本作は「タイス」というタイトルでオペラにもなっている。アナトール・フランスというと、ちょっと古臭い感じがする作家だが、その作品は現代的な問題にも十分に通じるテーマを提供してくれると感じている。

 

素朴な善悪の判断や、その時々の感情のようなものを思考の糧にしている人間は、しばしば動物的であるとして低くみられる。それよりも、神聖な「信仰」や、緻密な理論構造を持つ何らかの「主義」のようなものに沿って生きている人間の方がずっと精神的に高く、知的に優れているように見える。しかし、しばしば後者は、白と黒をあまりにもはっきりと分けすぎてしまい、残酷な結末をこの世に招いてきたことは歴史が教えている。

 

無様に曖昧に生きていくことを良しとするのは結構難しいことだが、本当の正義や愛は、灰色に耐えることで僅かばかり獲得されていくものである気がする。

『黄色い雨』フリオ・リャマサーレス

とにかくこわい話だった。人口が流出していく山奥の小さな村で、だんだん独りぼっちになっていく恐怖、自分以外の最後の人間だった妻の頭がだんだんおかしくなっていく恐怖、死んだ人間の幽霊が当然のように家の中や村の中をうろうろしている恐怖、餓死寸前で隣村に行くも人間の非情に打ちのめされる恐怖・・・とにかくさまざまな孤独と恐怖がぎゅうぎゅう詰めになった物語で、一人で夜中に読めたもんじゃない。 

黄色い雨 (河出文庫)

黄色い雨 (河出文庫)

 

 書き出しから、「~であるだろう」という推測の文末が繰り返され、とても違和感がある。語りが推測の文末でしかできない理由は段々分かってくるのだが、この変な感じによって入りからぐっと引き付けられる。

 

文庫版の紹介文には「奇跡的な美しさ」と評されたとあるが、確かに本作にはちょっと他では感じたことがないような独特の静寂があり、川と崩れた教会の情景は夕日のきらめきと共に実際に見たんじゃないかと思えるほど鮮明に覚えている。ただ、そういった美しさの記憶よりも、亡霊のシーンがあまりにも怖くてトイレに行けなくなったことの方が印象として大きい。

 

アイニェーリェ村は実在した村であるそうだ。過疎地に住む身分としては、おとぎ話というよりは差し迫ってくる具体的な危機として、とても他人事には思われない話だった。

『グレート・ギャツビー』スコット・フィッツジェラルド

グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)

グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)

 

 今の日本で、村上春樹を通過せずに読書生活を始めた人にはなかなかお目にかかれないだろう。例にもれず私もその一人で、10代の時に『ノルウェイの森』を読んだ衝撃を今でも忘れない。通っていた塾に偶然置いてあって、上巻を持って帰って読み始め、その感動に打ち震えた。うんざりさせられる学校生活なるもの以外にも、このような美しい場所がこの世にあり、人間はこんなにも深く生きて良いんだという発見に胸が高鳴った。学校というひたすらにやかましく軽薄な世界とのコントラストによって、村上春樹の小説世界という新しい自分の居場所の静謐さや奥深さは、ますます重要なものになった。

 

図書館で片っ端から村上春樹の本を借りて、読破するという格好で(その後、勢い余って隣の「村上龍」に突入する)、私の読書生活はスタートした。大人になり、当時よりずっと沢山の素晴らしい小説家を知って愛読するようになった今でも、村上春樹は私の不動の一番だ。つらくてつらくて泣き叫びたくなるとき、村上春樹の物語は、とても控えめなヒーローとしていつも私の痛みを和らげてくれたし、今もそうだ。

 

そんな愛する村上春樹が一番愛する小説、それが本作「グレート・ギャツビー」である。その愛の深さは、あとがきを読んで知るべし。主人公や登場人物の性格、ストーリー、地理的な設定など、村上春樹の小説がどれほどグレート・ギャツビーの影響を受けているのかがよく分かる。『騎士団長殺し』の免色さんなんて、ほとんどギャツビーそのものだ。

 

10年近く前に一度読んだ時は、ものすごい薄味の料理を食べたような気分で、自分に関係のある話だとはさっぱり思えなかったのだが、今回はとても深く感じ入っている。それは、10年ばかりささやかな人生経験を重ねることで、ギャツビーや主人公がひっそりと胸に秘めている倫理観が、いかに貴重で得難いものであるのかということに気づいたからかも知れない。そういう誰かの、存在したことも気付かれないような倫理観に、思いがけないところで私たちは救われながら生きていると思う。

 

本作は、主人公の隣人で大金持ちのギャツビーという男が、主人公の従姉に恋をしており、彼女との仲介を頼まれることから始まる。その後もう大変ないざこざに巻き込まれる訳だが、思えばトラブルに巻き込まれて「やれやれ」というのは、村上春樹自身の作品の特徴のひとつでもある。

 

ギャツビーという男は、一般的な美的感覚や道徳観から考えると、どうしたって素晴らしい人間ではない。服装や言葉遣いもなんとなくうさんくさい感じがするし、なぜお金持ちなのかはっきりした理由もわからず、巷では犯罪に手を染めているという噂もある。しかし、ギャツビーには、ある種の繊細な感受性を備えた人物には分かる高潔さのようなものがあった。

 

彼はとりなすようににっこり微笑んだ。いや、それはとりなすなどという生やさしい代物ではなかった。まったくのところそれは、人に永劫の安堵を与えかねないほどの、類い稀な微笑みだった。そんな微笑みには一生のあいだに、せいぜい四度か五度くらいしかお目にかかれないはずだ。その微笑みは一瞬、外に広がる世界の全景とじかに向かい合う。あるいは向かい合ったかのように見える。それからぱっと相手一人に集中する。たとえ何があろうと、私はあなたの側につかないわけにはいかないのですよ、とでもいうみたいに。その微笑みは、あなたが「ここまでは理解してもらいたい」と求めるとおりに、あなたを理解してくれる。自らがこうあってほしいとあなたが望むとおりのかたちで、あなたを認めてくれる。あなたが相手に与えたいと思う最良の印象を、あなたは実際に与えることができたのだと、しっかり請け合ってくれる。そしてまさにそのポイントにおいて、微笑みは消える(pp.92-93)

 

ギャツビーと主人公が最後に言葉を交わすシーンは、あまりにも美しいので引用しない。一生に一度でも、他者とこんな風に心を触れ合わせることができるのなら、それだけで生きていた意味があると思わせるほど美しい。

 

疲れたときに、また読みたい。