ポテトとサルバドーラ

海外文学の読書感想文

『デミアン』ヘルマン・ヘッセ

まさにこの本が必要だった時期が自分の人生にはあった。その時の自分にこれを渡すことができていたらと思う。

 

デミアン (新潮文庫)

デミアン (新潮文庫)

 

 

本書は、敬虔なクリスチャンホームに育った主人公シンクレールが、独自の哲学をもって生きるデミアンという友人を持ち、彼から様々なことを学び取りながら、精神的に豊かに複雑に成長していく物語である。あとがきにもあるように、ヘルマン・ヘッセは本作を契機に、少年時代を美しく素朴に描く前期の作風から、より懐疑的でしっかりとした影を持った物語を書き始めるようになった。

 

成長とは忘恩を不可避的に孕む。ある一つの世界から別の世界に移行したいと願えば、自分が今所属している共同体の価値観を徹底的に否定する時期を持たなければならない。その行為は、今まで自分を温かく支えてくれた人たちを大いに傷つけることである。成長にはそういった暴力的な側面がある。自分の心の中に引き受けていかなければならない分離の悲しさや罪悪感は、成長の代償である。

 

野心のない人でも、一生に一度や二度、敬虔とか感謝とかいう美徳と衝突することは免れない。だれでも一度は父や先生から自分を隔てる歩みを踏み出さなければならない。だれでも孤独のつらさをいかほどか感じなければならない。(p.183)

 

われわれが習慣からではなく、ぜんぜん自由意志から愛と畏敬をささげたような場合、まったく自発的な気持ちから弟子や友だちとなったような場合ーそういう場合には、自己内部の主要な流れが愛するものから離れようとするのに突然気づくと、つらい恐ろしい瞬間になる。そのときは、友だちと先生とをしりぞける思想の一つ一つが毒のあるとげをもってわれわれ自身の胸をさし、防衛の打撃の一つ一つが自分自身の顔に当たるのである。その時は、合法的な道徳を心の中に持っているつもりでいる人間の前に、「不信」とか「忘恩」とかいう名まえが、恥ずべき呼びかけや罪びとの極印のように現れる。そのときは、おびえた心は幼年時代の美徳のなつかしい谷へ恐れおののきつつ逃げ帰り、この絶交が、またこのきずなの切断が必要だった、とは信じることができない。(p.184)

 

星を抱擁することは人間にはできないということを彼は知っていた、あるいは知っていると思った。実現の希望がないのに星を愛するのは運命だ、と彼は考えた。(p.221)

 

この本の中で繰り返されるのは、人間は自分がどういう風になりたいかに惑わされるのではなく、自分の運命というものを感じ取って、その運命を生きろ、という主張である。

 

人生の方向性を定める決定的な出来事は、自分が前向きに、アンテナを張って生きていると突然に訪れる。その流れに従って、その場その場で最大限の努力をすれば、また次の出会いが訪れる。たしかに人生はそういう風にできているかも知れない。

 

後半、デミアンの母が出てきてから、会話の内容がどんどん選民主義的・スピリチュアル的になってきて白けてくるが、まぁこれだけ深く生きていたら他人を「衆愚」と呼んで馬鹿にしたくなる気持ちも分からなくもないので、仕方がない。