ポテトとサルバドーラ

海外文学の読書感想文

『女の一生』ギ・ド・モーパッサン

自分が今持っているものを慈しんで生きるのは、とても難しいことである。いつも「ここではないどこか」「これ以上のなにか」を求めて、人は不幸になっていく。

女の一生 (光文社古典新訳文庫)

女の一生 (光文社古典新訳文庫)

 

本作の舞台は19世紀のフランス、ノルマンディ。田舎貴族の一人娘であるジャンヌが結婚に絶望し、人生に絶望し、時々点滅的に現れるわずかな希望を頼りに生きていくというお話である。

 

この物語の中で「恋愛」や「結婚」は、人生を輝かしいものに変える魔法としてジャンヌに期待を持たせながら、現実には彼女を打ちのめすあらゆる不幸の始まりとして描かれている。

 

ジャンヌが結婚し、新婚旅行から戻ってきた後のセリフ。結婚によってもたらされる事態がこのようなものであれば確かに夫婦生活は地獄である。

 

もう、何もすることがない。この先、何もやることがないのだ。修道院で過ごした少女時代、将来のことばかり考え、夢ばかり見ていた。あのころは、希望に胸を高鳴らせることの繰り返しが生活のすべてであり、時間は気づかぬうちに過ぎていった。ずっと恋に憧れていたのに、彼女の夢想を閉じ込めてきた塀の外に出てみると、すぐにその夢がかなってしまった。(…)だが今や、蜜月の日々が終わり、日常の生活が始まる。それは扉が閉ざされるということ、ただひたすら希望をふくらませ、不安ながらも胸をときめかせる日々はもう戻らないということだった。未来を待つ日々は終わったのだ。もうやることがない。今日も、明日も、この先もずっと。(pp.137-138)

 

結婚がこういうものであった時代と階級の女性たちにとって、人生はどんなにお金や地位があっても易いものではなかったと思う。

 

解説にもあるが、ジャンヌといえば、真っ先にジャンヌ・ダルクを思い出すが、本作のジャンヌはそれとはまったく対照的に、受け身で自分の頭で考えるということをまるでしない。

 

「他者との関係性」ばかりが幸福の源である人間というのは、なかなか幸せを手にできない。とにかくジャンヌは、夫であるジュリアンが、息子のポールが、自分を愛してくれるのか、大事に思ってくれるのか、ということにばかりに振り回されて不幸になっていく。他者の心や運命というものは、基本的には自分の領域の埒外にあるものである。例えば、自分にどんな良い素質が備わっているのかということよりも、相手のその時点での価値観や人生経験などが自分との関係性をいかなるものにするのかを決定付ける要素として大きいことはしばしばある。

 

私が最も好きな登場人物はジャンヌの家の女中で、のちに農婦となるロザリである。物語の序盤、ロザリの運命は本当に胸の痛むものだが、その不条理が彼女を現実的で地に足のついた人間に育てていく。

 

ボヴァリー夫人のシャルルの母もそうだが、ジャンヌやエマのようにある意味贅沢な憂鬱症になっている貴族の娘に、生きる上での必然的な選択のみを行って生活する彼女たちの差し向ける言葉はいつも正気だ。ロザリのそれまでの人生を考えると、この言葉の重みがより一層感じられる。

 

何かといえば「私はつくづく運がない」とつぶやき、そのたびにロザリに大声で叱られる。

「食べるものに困って働かなければならないわけでも、毎朝6時に起きて一日じゅう働くわけでもないのに、何をおっしゃいますか。そうでもしなければ生きていけない人はたくさんいるんですよ。そういう人たちは一生懸命働いた挙句に、年をとって働けなくなったら、惨めに死んでいくしかないんですからね」

「でも、私、息子に捨てられて一人ぼっちなのよ」

「それぐらい何ですか!子どもが兵隊にとられたり、アメリカに行ってしまった人だっているんですよ!」(p.419)

 

地位や才能やお金など、一般的に良いとされているものでさえ、何かを「持っている」という状態は、人を不自由にすることがある。作者モーパッサンは、才能に恵まれながらも結構しんどい人生を送っていたようで、42歳で自殺未遂をして、パリの精神病院に入院し、そこで亡くなっている。

 

掃除、洗濯、賃労働、なんでもよいから、毎日の「些事」に一生懸命になって生きたいものだと思う。