ポテトとサルバドーラ

海外文学の読書感想文

『神々は渇く』アナトール・フランス

義憤というのは、人を酔わせて、どんな残虐行為でも平気で行わせてしまうという点で非常に危険なものである。

神々は渇く (岩波文庫 赤 543-3)

神々は渇く (岩波文庫 赤 543-3)

 

 

マイケル・ギルモア『心臓を貫かれて』を読んで、加害というテーマの重要性をますます深く自覚していたところ、偶然見かけた紹介文にぐっと心惹かれたのがアナトール・フランス『神々は渇く』だった。

 

狂信的に正義を信じて「普通」の感覚を失ってしまうことは恐ろしい。親兄弟が死んだら悲しい、知らない人でも困っているなら助けたい、そういった凡庸な感性を、正義感に満ち満ちて誇り高く歪めてしまうことの、なんと恐ろしいことか。

 

若きエヴァリスト・ガムランの心的描写は、この視野狭窄が主観的には如何に正しく美しく、あまりにも自明なことであるのかを、その熱と共によく伝えている。ガムランという容器の中に入れられたら、世の中には別の形の正義もあるなんてことはちょっと考えられないだろうと戦慄する。

 

革命のもたらす平和を心から信じていたガムランは、革命裁判所(反革命と見なされた政治犯の裁判を行う)の裁判官として働き始める。フランス革命の最中、粗雑な裁判で死刑判決を頻発し、数千人をギロチン送りにした悪名高き裁判所である。

 

少年よ、君は自由で幸福な人間として大きくなるだろう、そしてそれは忌まわしいガムランのおかげだということになるだろう。僕が兇悪なのは君が幸福になるためなのだ。僕が残忍なのは君が善良になるためなのだ。僕が無慈悲なのは、明日、すべてのフランス人が喜びの涙に暮れながら抱き合うためなのだ。(pp.318-319)

 

僕はあなた(ロベスピエール:引用者注)の意図に奉仕しよう。あなたがあなたの智慧と慈愛によって、市民の確執を終熄させ、同胞相喰む憎悪を消滅させ、死刑執行人をもはやキャベツやレタスの首だけしかはねない庭師となすことができるように、僕は革命裁判所の同僚たちと協力して陰謀者どもや叛逆者どもを皆殺しにして、仁慈への道を準備しよう。われわれは警戒と峻厳とを倍化するだろう。いかなる有罪人もわれわれの眼を逃れることはできないだろう。こうして共和国の敵の最後の一人がギロチンの刃の下に落ちた暁には、あなたは寛大に振舞っても罪を犯すことにはならず、フランス全土に無罪と徳とを漲らせることができるだろう。おお、祖国の父よ!(pp.322-323)

 

ガムランは自分自身の死刑が行われる最期の瞬間まで、自分の正義を決して疑うことはなかった。

 

《俺が死ぬのは正義に叶ったことだ、》と彼は考えた。《共和国に対して投げられるこうした侮辱をわれわれが受けるのは当然だ。われわれは共和国をこうした侮辱から守るべきだったのに、それができなかったのだから。(中略)おれはいたずらに容赦して、人々の血を流すことを惜しんだ。おれの血が流れんことを!おれが非業の死を遂げんことを!それは自業自得のことなのだ。(pp.338-339)

 

ガムランの隣人で、元貴族、今は操り人形を作って細々と生活をしているモリース・ブロトという老紳士がいる。彼の言葉は、作者アナトール・フランスの信念を代弁する。

 

わたしは理性を愛してはいるが、狂信的に愛しているわけではない、とブロトは答えた。理性はわれわれを導き、われわれを照らしてくれる。しかし理性が神と奉られるようなことになったら、それはわれわれを盲目にし、われわれに数々の罪を犯させるだろう。(p.90)

 

正義を振り回して凶暴化する自分に幸運にも気がついた時には、いつもアナトール・フランスの言葉を思い出したい。

 

人間は徳の名において正義を行使するにはあまりにも不完全な者であること、されば人生の掟は寛容と仁慈でなければならない(pp.387 解説)

 

読後アナトール・フランスにとても興味をそそられ、『シルヴェストル・ボナールの罪』にも手を出してみたが、『神々は渇く』を越える震撼は訪れず。でもこの感動が忘れられないので、積ん読に控えている『舞姫タイス』に期待。