ポテトとサルバドーラ

海外文学の読書感想文

『ペスト』アルベール・カミュ

カミュの作品の感想を書くと思うと毎回憂鬱になる。この感動に自分の言葉が追いつくことは永遠にないだろうなと思うからだ。そして、物語に埋蔵された大事なことの10%だって自分は持ち帰ってこられなかったんだという無力感を感じるからだ。いつも大事な何かがあることだけは分かるのに、読み終わった後には、核心の切れ端のような記憶だけしか残っていない。カミュの作品は、いつもそれだけ私を高揚させ、同時に困惑させる。

ペスト (新潮文庫)

ペスト (新潮文庫)

 

 今、ふせんを貼ったページにもう一度目を通そうとすると、美しい情景が再び私の目の前に広がり見とれてしまう。ペストに汚染され、閉鎖されたこの町で起こる出来事はこんなに美しい。その美しさは、どこまでも無力で、即効的な意味は何も持たない。登場人物たちはそれぞれに固有の道徳律に従って、誠実に生きていこうとする。彼らは、この非常事態が日常化した町で、自分のささやかな職務を全うしながら毎日を過ごす。当然のこととして。

 

「いったい何があなたをそうさせるんです、こんなことにまで頭を突っ込むなんて」

「知りませんね。僕の道徳ですかね、あるいは」

「どんな道徳です、つまり?」

「理解すること、です」(p.192)

 

世間に存在する悪は、ほとんど常に無知に由来するものであり、善き意志も、豊かな知識がなければ、悪意と同じくらい多くの被害を与えることがありうる。人間は邪悪であるよりもむしろ善良であり、そして真実のところ、そのことは問題ではない。しかし、彼らは多少とも無知であり、そしてそれがすなわち美徳あるいは悪徳と呼ばれるところのものなのであって、最も救いの無い悪徳とは、自らすべてを知っていると信じ、そこで自ら人を殺す権利を認めるような無知の、悪徳にほかならぬのである。殺人者の魂は盲目なのであり、ありうるかぎりの明識なくしては、真の善良さも美しい愛も存在しない。(p.193)

 

本作の中で、ペストという疫病の存在は、ホロコーストをはじめとする「悪」との読み替えを示唆してもいる。

 

誰でもめいめい自分のうちにペストをもっているんだ。なぜかといえばだれ一人、まったくこの世にだれ一人、その病毒を免れているものはいないからだ。そうして、引っきりなしに自分で警戒していなければ、ちょっとうっかりした瞬間に、ほかのものの顔に息を吹きかけて、病毒をくっつけちまうようなことになる。自然なものというのは、病菌なのだ。そのほかのもの―健康とか無傷とか、なんなら清浄といってもいいが、そういうものは意志の結果で、しかもその意志は決してゆるめてはならないのだ(…)ずいぶん疲れることだよ、ペスト患者であるということは。しかし、ペスト患者になるまいとすることは、まだもっと疲れることだ。つまりそのためなんだ、誰も彼も疲れた様子をしているのは。なにしろ、今日では誰も彼も多少ペスト患者になっているのだから。しかしまたそのために、ペスト患者でなくなろうと欲する若干の人々は、死以外にはもう何ものも開放してくれないような極度の疲労を味わうのだ。(pp.376-377)

 

自分の生命がこの本と出会う前に終わらなくてよかったと心から思わせる文章がこの倍ぐらいあって、引用したくてたまらない。

 

カミュの作品は死ぬまで何度も読むことだろう。