ポテトとサルバドーラ

海外文学の読書感想文

『グレート・ギャツビー』スコット・フィッツジェラルド

グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)

グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)

 

 今の日本で、村上春樹を通過せずに読書生活を始めた人にはなかなかお目にかかれないだろう。例にもれず私もその一人で、10代の時に『ノルウェイの森』を読んだ衝撃を今でも忘れない。通っていた塾に偶然置いてあって、上巻を持って帰って読み始め、その感動に打ち震えた。うんざりさせられる学校生活なるもの以外にも、このような美しい場所がこの世にあり、人間はこんなにも深く生きて良いんだという発見に胸が高鳴った。学校というひたすらにやかましく軽薄な世界とのコントラストによって、村上春樹の小説世界という新しい自分の居場所の静謐さや奥深さは、ますます重要なものになった。

 

図書館で片っ端から村上春樹の本を借りて、読破するという格好で(その後、勢い余って隣の「村上龍」に突入する)、私の読書生活はスタートした。大人になり、当時よりずっと沢山の素晴らしい小説家を知って愛読するようになった今でも、村上春樹は私の不動の一番だ。つらくてつらくて泣き叫びたくなるとき、村上春樹の物語は、とても控えめなヒーローとしていつも私の痛みを和らげてくれたし、今もそうだ。

 

そんな愛する村上春樹が一番愛する小説、それが本作「グレート・ギャツビー」である。その愛の深さは、あとがきを読んで知るべし。主人公や登場人物の性格、ストーリー、地理的な設定など、村上春樹の小説がどれほどグレート・ギャツビーの影響を受けているのかがよく分かる。『騎士団長殺し』の免色さんなんて、ほとんどギャツビーそのものだ。

 

10年近く前に一度読んだ時は、ものすごい薄味の料理を食べたような気分で、自分に関係のある話だとはさっぱり思えなかったのだが、今回はとても深く感じ入っている。それは、10年ばかりささやかな人生経験を重ねることで、ギャツビーや主人公がひっそりと胸に秘めている倫理観が、いかに貴重で得難いものであるのかということに気づいたからかも知れない。そういう誰かの、存在したことも気付かれないような倫理観に、思いがけないところで私たちは救われながら生きていると思う。

 

本作は、主人公の隣人で大金持ちのギャツビーという男が、主人公の従姉に恋をしており、彼女との仲介を頼まれることから始まる。その後もう大変ないざこざに巻き込まれる訳だが、思えばトラブルに巻き込まれて「やれやれ」というのは、村上春樹自身の作品の特徴のひとつでもある。

 

ギャツビーという男は、一般的な美的感覚や道徳観から考えると、どうしたって素晴らしい人間ではない。服装や言葉遣いもなんとなくうさんくさい感じがするし、なぜお金持ちなのかはっきりした理由もわからず、巷では犯罪に手を染めているという噂もある。しかし、ギャツビーには、ある種の繊細な感受性を備えた人物には分かる高潔さのようなものがあった。

 

彼はとりなすようににっこり微笑んだ。いや、それはとりなすなどという生やさしい代物ではなかった。まったくのところそれは、人に永劫の安堵を与えかねないほどの、類い稀な微笑みだった。そんな微笑みには一生のあいだに、せいぜい四度か五度くらいしかお目にかかれないはずだ。その微笑みは一瞬、外に広がる世界の全景とじかに向かい合う。あるいは向かい合ったかのように見える。それからぱっと相手一人に集中する。たとえ何があろうと、私はあなたの側につかないわけにはいかないのですよ、とでもいうみたいに。その微笑みは、あなたが「ここまでは理解してもらいたい」と求めるとおりに、あなたを理解してくれる。自らがこうあってほしいとあなたが望むとおりのかたちで、あなたを認めてくれる。あなたが相手に与えたいと思う最良の印象を、あなたは実際に与えることができたのだと、しっかり請け合ってくれる。そしてまさにそのポイントにおいて、微笑みは消える(pp.92-93)

 

ギャツビーと主人公が最後に言葉を交わすシーンは、あまりにも美しいので引用しない。一生に一度でも、他者とこんな風に心を触れ合わせることができるのなら、それだけで生きていた意味があると思わせるほど美しい。

 

疲れたときに、また読みたい。