ポテトとサルバドーラ

海外文学の読書感想文

『舞姫タイス』アナトール・フランス

正義の罪深さをしみじみと考えさせたアナトール・フランス『神々は渇く』の感動を受け、本作を手に取る。『神々は渇く』のエヴァリスト・ガムランが革命のもたらす正義を狂信していたように、本作の主人公、修道士パフニュスは、キリスト教に対する排他的な信仰を固持している。しかし、それぞれの狂信者の迎える結末には、はっきりとした違いがある。 

舞姫タイス (白水Uブックス―海外小説の誘惑 (145))

舞姫タイス (白水Uブックス―海外小説の誘惑 (145))

 

 タイスは古代エジプトアレクサンドリアの高級娼婦である。彼女は親から見捨てられ、野良犬のように生きてきたが、怪しい老婆にその美しさを見出され、舞台芸の世界に入り、体ひとつでのし上がってきた。多くの男たちを魅惑し、巻き上げた金で贅沢な暮らしを送っている。しかし、その一方で自分がいつか若々しい美しさを失い、男たちから見限られることに恐怖してもいる。

 

厳しい修行生活を送る修道士のパフニュスは、10代の頃憧れた美貌の娼婦タイスのことをふと思い出し「彼女に神の道を歩ませなければ」という使命感に駆られ、アレクサンドリアに赴く。パフニュスはタイスを信徒たちのコミュニティに導きいれるも、タイスに対する性的な欲望と信仰に引き裂かれ、苦境に追いやられていく。

 

パフニュスは過酷な修行に耐え忍び、多くの弟子を従える名のある修道士であるが、宗教という高みからタイスをなじる様子は本当に見苦しい。自分の聖性を強調し、神の名を借りて「お前は汚い」と罵りながら、内心はタイスへの肉欲を果たせなかったことへのねじ曲がった復讐心に燃えている。パフニュスの「小物感」は、無神論者でありながら、独自の思索を深め、精神的な平穏の中に過ごしている男に食ってかかり、見事にあしらわれるシーンなどにもよく現れており、こちらも読んでいて非常に痛々しい。物語の最終場面で、タイスへの愛を告白するパフニュスは、苦渋に満ちた様子で描かれているが、等身大の「弱い」自己に向き合い、外部から取り込んだ価値観のソフト(この場合、「キリスト教」であるが、あらゆるイズムに読み替えられる)に依存することなく、自分の哲学を持って生きる契機を与えられたという点で私の目には救いに映る。

 

少し残念なのは、タイスの人物像がパフニュスの作りこみように比べて、平坦な感じがすることだ。私はタイスがいつ暴れだすか楽しみにしていたのだが、タイスは驚くほどあっさり信仰に向かって、病気になって死んでしまう。タイスが信仰生活の中に見出した平穏が、いかなるものであったのか知りたかった。

 

なんと、本作は1915年の水野和一訳から8つも日本語訳が出ているという衝撃。ちなみに本作は「タイス」というタイトルでオペラにもなっている。アナトール・フランスというと、ちょっと古臭い感じがする作家だが、その作品は現代的な問題にも十分に通じるテーマを提供してくれると感じている。

 

素朴な善悪の判断や、その時々の感情のようなものを思考の糧にしている人間は、しばしば動物的であるとして低くみられる。それよりも、神聖な「信仰」や、緻密な理論構造を持つ何らかの「主義」のようなものに沿って生きている人間の方がずっと精神的に高く、知的に優れているように見える。しかし、しばしば後者は、白と黒をあまりにもはっきりと分けすぎてしまい、残酷な結末をこの世に招いてきたことは歴史が教えている。

 

無様に曖昧に生きていくことを良しとするのは結構難しいことだが、本当の正義や愛は、灰色に耐えることで僅かばかり獲得されていくものである気がする。