ポテトとサルバドーラ

海外文学の読書感想文

『異邦人』アルベール・カミュ

この作品を初めて読んだ時の恐怖を、忘れることはできない。自分にとって蓋然性が高いと思われる選択を行って、日々誠実に生きていると、突然死刑を宣告されるという展開があまりにも恐ろしく、眠ることができなくなった。色々と思うところがあり、久々に再読したが、こんなに薄い本なのに、再びそのテーマの重要性に打ちのめされ、途方に暮れている。

 

異邦人 (新潮文庫)

異邦人 (新潮文庫)

 

 

人は自分の価値判断や行動基準が、いわゆる「常識」の範囲内に収まっていると思って生活している。「普通」にしていれば、誰かに非難されたり、共同体から追放されたりせずに生きていけるのだと信じている。その基本的な社会や自分に対する信頼感によって、毎日の生活を安心して送ることができる。しかし、人生には、自分という人間の自然な流れに沿って取った行為によって、「普通」の群衆から自分が排除される瞬間が訪れることがある。その時、今までにこやかに好意的に接してくれていた人々が、正義の衣をさっと羽織って自分に対峙し、「裁き」を下す。そして「普通」の群から離れた一匹の羊として取れる選択肢は、多くの場合、罰を受け入れ、沈黙することだけである。

 

カミュはいつも精神衛生のために無いことにしていた恐怖を照射し、決して私たちを平穏無事な状態にしておいてはくれない。

 

物語は、母が養老院で亡くなり、葬式に行くところから始まる。主人公のムルソーは、母の死の翌日に女を作って海で遊び、コメディ映画を見に行く。その後、隣人の女性関係のトラブルに関わり、「太陽のせい(p.110)」で隣人の敵を銃で撃ち殺す。裁判では、ムルソーの、母の死への態度が常軌を逸して冷淡であるということ、とりわけ葬式で彼が涙を流さなかったことが、死刑を判決させる重要な証拠として機能していく。最後にムルソーは、自分が憎悪の叫びをあげる群衆に迎え入れられ、処刑されることを望む。

 

『異邦人』の意味することについて考えると、その難解さに立ち尽くしてしまう。カミュの作品全般に言えることであるが、水面に飛び出している部分から推測するに、そこには恐ろしく重大な全体が隠されていることが分かる。しかし、読書という体験を通じて得ることのできた言語化できる確信は、その広大な予感に対していつもお話にならないくらい小さい。

 

誰かの死を悼んで「泣く」という行為を評価することは、それぞれに固有であったはずの悲しみを束ねる暴力的なことである。愛する一人の人間が、自分の目の前から永遠に消えた。この重大な事実に、ひとりの人間が真摯に向き合おうとするとき、そのやり方は実に多様になるはずだ。その悼み方に主観的な真剣さが伴っていれば、一つ一つの弔い全てに尊重されるべき価値がある。しかし、ムルソーは、母の死に対する彼固有の供養の姿勢が、「常識」とあまりにも隔絶していたことによって、死刑の側に強く押されていくのである。

 

事柄や他者についての理解ににじり寄りながら、決して容易には理解しないという倫理があると思う。愛や死との向き合い方、隣人への評価、自分自身の行動の解釈、こういったものをムルソーは世間的な見解に寄り掛かることなく自分で考える。だから、とにかく考えるのが遅いし、結論の輪郭がはっきりしないし、時にとても投げやりに見える。ムルソーはあくまでも、自分という人間の感性のフィルターを通して考えたことしか信じない。愚鈍だけれども、私はそこに(結果的な)倫理の存在を感じる。

 

全身を倦怠に包まれ、この世において意味のあることはほとんどないのだ、と繰り返し述べるムルソーの脳裏に、死刑の寸刻前、「何人も、何人といえども、ママンのことを泣く権利はない(p.130)」という激しい思念が表出するシーンは印象的である。ムルソーは自身の死を前にして、母が最期の日々に抱いていたかも知れない思いが、ようやく理解できたように思えたのである。

 

しかし『異邦人』が一筋縄ではいかないのは、その「普通」からあまりにも乖離した倫理なるものの結果として、致命的な加害行為が導き出されるということを、どう考えるのかという問題にある。これが本当に悩ましい。

 

思うに、この世においても、信頼に足る人間とは、多くの場合、ムルソーのような「異邦人」である。その人の根底的で固有な感性によって、ものをまともに考えたとして、その結果がいつも「常識」的である訳がない。それぞれの誠実さの結果は、どこかしら歪なものになるし、それがばらばらに正しい。ちゃんとばらばらな結論を持ち寄らないと、世の中がどんなことになるのかについて、今更何も説明する必要はない。

 

しかし、その誠実さの結果によって人を殺したとして、それを私は一体どう考え得るのだろう。この辺りで途端に思考が行き詰まる。これは法律に則ってどのくらいの重さの罰を与えるかという次元の話ではなく、ひとりの人間が心の中でそっとつぶやくことしかできないような、その「犯罪者」に対する複雑な評価の問題である。

 

こうしてカミュは、私の眠れない夜を増やしていくのだ。