ポテトとサルバドーラ

海外文学の読書感想文

『地下室の手記』フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー

強烈な自意識を抱えた人間のたどる思考回路が、150年前と現代で大した違いがないというのは驚くべきことである。

地下室の手記 (光文社古典新訳文庫)

地下室の手記 (光文社古典新訳文庫)

 

 

本作は、地下室にひきこもった40歳の主人公が手記の形で自らの苦悩を吐露し、章を分けた後半で、地下室生活の契機となった、ある一連の出来事について告白するというものである。

 

「何のことを言っているのかは、よく分かる」という類の分析が随所で炸裂していて、つい声をあげてしまうほどの苦笑に襲われる。

 

ドストエフスキーの作品を読んでいると、自分の中にある他と繋がるべくもないと思っていた痛みなり想念なりと、ピシッと結びつくような言葉にしばしば出会う。そういう読書体験の積み重ねが、私にとってドストエフスキーという極端な作家を身近な人物のように感じさせているのかも知れない(ちなみに脳内での物事の展開のされ方についてはアレナスに強いシンパシーを感じている)。

 

そもそも自意識のある人間に、少しでも自分を尊敬することなんてできるだろうか?(p.33)

 

そして最後に、俺は退屈している。それなのに、いつもなに一つやっていない。(p.82)

 

俺は、ある昔の思い出にひどく苦しめられている。何日か前に俺はそれをふと、まざまざと思い出したのだが、以来それは、忌々しい音楽のメロディのようにつきまとってどうしても離れないのだ。(中略)実は俺には、そういう思い出が何百もあって、そのうちの一つが、折に触れて入れ代り立ち代り現れては俺を苛むのだ。(p.82)

 

支配欲と絡みあった歪んだ愛を持って娼婦リーザに近づき、自分から仕掛けたくせに、いざ彼女を前にすると自意識の不安に苛まれてヒステリーを起こし、我に返って「うわあ、気まずい」と思って居たたまれなくなるシーンなど、爆笑以外にない。しかし、そうしてひとしきり笑った後で、憐れみと共感がわき上がってくる。

 

俺にとって、愛することは、すなわち、相手に対して横暴に振舞い、精神的に優位に立つことを意味していた。俺は、一生涯、それより他の愛の形など、想像だにできなかった。そのあげくの果てに、今ではときには、愛とは、愛すべき存在から自発的に贈られた、その存在に対して横暴に振舞ってもいいという権利なのだ、とさえ考えるようになった。俺の地下室の空想の中でも、俺は愛と言えば、闘争としか考えられず、それは、常に憎しみから始まり、精神的な征服に終わるべきものだった。そしてその後は、征服してしまった相手をどう扱ったらいいものか、もはや見当もつかないのだ。(p.252)

 

地下室に立てこもっている、全ての私たちのために祈りましょう。