ポテトとサルバドーラ

海外文学の読書感想文

『百年の孤独』ガブリエル・ガルシア=マルケス

 マルケスを読んでいると、人間の愛や憎しみなどの感情は、決して秩序だったものではなく、本人以外は(あるいは本人ですら)容易に理解できない混沌である、ということに深く得心する。

 

百年の孤独 (Obra de Garc´ia M´arquez)

百年の孤独 (Obra de Garc´ia M´arquez)

 

 

 ちょうど本作を読んでいる時に、新国立美術館のウィーンモダン展に行ってきたのだが、その時、クリムト率いるウィーン分離派が描画を通じて到達しようとした「ヌーダヴェリタス(裸の真実)」なる概念を知って、なんだかマルケスの作品みたいだと思った。マルケスのみならず、ラテンアメリカの作家の描く混沌は、整然とした日常世界の皮を一枚剥がした場所に広がる裸の真実であるように思う。

 

 本作『百年の孤独』は、ブエンディア家の百年の歴史とその崩壊を描いた物語である。世界文学必読リストに必ず載る名作だが、あらすじが漠然としていて、登場人物の名前もどうしようもなくややこしいので、なんとなく敬遠していた。しかし、『コレラの時代の愛』が私の人間認識(とりわけ「愛し合う」という人間の営為をめぐってのそれ)を作り変えてしまうような印象深い作品で、その勢いで読んだ『予告された殺人の記録』はさっぱり面白くなくて、三度目の正直としてようやく『百年の孤独』に手を出すに至った。端的に、読んでよかった。

 

 性的な様相を帯びる、愛の不可分性。複数人を同時に愛する、双子が一人の人間のふりをして女を共有する、さっき生まれたばかりのような相手と結婚したがる、同居する年嵩の叔母を追い求めるなど、禁忌も何もあったもんじゃない愛の展開を見ていると、「不倫もの」、「小児性愛もの」、「近親相姦もの」といった小説や映画のジャンル分けが、どんどん無化されていく。彼らの愛をおしとどめることのできる防波堤は何もなく、その破壊的な力を前にして、愛を名付けようとする上品な努力ほど無意味なものはない。まず愛が在る。善悪は、事の成り行き次第で事後的に決まる。

 

 憎しみの在り方にしても、殺した相手が幽霊になって出てきて、殺した方もなんだか懐かしくなって旧交を温める場面など、まず亡霊っておかしいという点も忘れ去ってしまうような、衝撃を与える。

 

それは実は、プルデンシオ・アギラルだった、ようやく彼だとわかったとき、死人もまた歳を取るのだという事実に驚きながらも、ホセ・アルカディオ・ブエンディアは全身を揺さぶられるような懐かしさを感じて叫んだ。「プルデンシオじゃないか!こんな遠いところまでよく来てくれた!」死んでから月日がたつにつれて、生きている者を恋うる心はいよいよ強く、友欲しさもつのるばかり、死のなかにも存在する別の死の間近なことに激しい恐怖を感じて、プルデンシオ・アギラルは最大の敵である男に愛情を抱くようになったのだ。(p.99)

 

 人間の感情や、その発露としてのあらゆる行為が、本人以外の他者にとって十全に説明可能であることなんて本当はないのだ。

 

 存在しない「純粋」を志向することは、時に自分や他者を深く傷つける。私たち「文明人」はもちろん、つつがなく現実世界を生き抜いていくために、それなりに規範や秩序を守って生きていく訳だけれど、一枚めくれば世界は混沌なんだということを、地下組織よろしく時々目配せして確認し合う必要がある。