ポテトとサルバドーラ

海外文学の読書感想文

『冷血』トルーマン・カポーティ

感受性が高く、繊細な人間というのは、世の中に不可欠な存在である。他者の痛みに共感し、その傷にそっと手を当てることができる人間がいない世界は、弱肉強食の荒野である。この世界をせめて生きられるものに変えてくれる「芸術」を生み出すのも、多くの場合、彼らのような感性をもった人間である。

冷血 (新潮文庫)

冷血 (新潮文庫)

 

1959年にカンザス州で一家4人を惨殺した本作の主人公ペリー・スミスは、例えばそんな人間だった。彼は、感受性の豊かな夢想家であり、歌とギターの才能に恵まれ、リスや子どもを愛していた。

 

両親の離婚後、酒乱の母親から引き離されたペリーは、孤児院で虐待されて育った。父に引き取られた後も教育を受けさせてもらえず、家を出た後は、教養に強烈な憧れを抱いたまま、刑務所に出入りする生活を送ってきた。ペリーは生きていく過程で、人間として受けて当然の最低限の愛情や配慮を受け損ね、社会の周辺に追いやられ、這いつくばるようにして生きてきた。

 

感受性の豊かな人間は、人の悪意もたくさん傍受してしまう。心も脆弱で、とても傷つきやすい。繊細であるということは、悲しいことに、世の中の悪意をたくさん吸い取ってしまう分、鈍感な人たちよりも心に憎しみを生成してしまいやすいのかも知れない。

 

ペリーの中で、長い年月をかけてゆっくりと、でも不可逆的に膨らんだ、風船のような世の中に対する憎しみは、不幸な偶然が重なった瞬間に、「これくらいの復讐をしても良いのだ」と加害の側に本人を押し出す形で爆発する。それは、ほとんど制御の手の届かない場所で起こる破裂だった。

 

犯行中のペリーは、縛り上げた家族が寒くないように、苦しくないように、ダンボールやまくらを敷いてやったり、娘を強姦しようとした共犯者のディックを「殺す」と脅して止めたり、屋敷に金が無いと分かったら、もうこんなこと止めてずらかりたいなあと夜空を見ながら思案したり、あなたや私のように「まとも」なのである。しかし、世に対する恨みの蓄積が、犯行を決意するときや、家族に向かって引き金を引く一瞬一瞬に、彼の頭を乗っ取って「殺人」という残虐行為を可能ならしめていく。

 

彼らのような人々の加害行為の矛先は、他者のみならず、自己破壊へも向かっていくように思う。というより、自己破壊の末に、他者への加害に向かう、という感じだろうか。

 

この恨みの爆発がもたらす凶行は、端的に悲劇である。こんなにもどうしようもないペリーの境遇を考えてみてもなお、殺人は忌まわしく、犯人に重罰をと叫ぶ人々の恐怖や怒りには、どんな疑問も差し挟む余地がない。

 

死刑に行き着いたペリーの人生の道程には、曲がれる角があったはずだ。ペリーが収監された拘置所の寮母であったマイヤー夫人は、ペリーに初めて会った日のことをこう話した。

 

あの人に、何か特別に好きなお料理はあるの、と聞いてみました。もし、あるんだったら、あした、つくってあげましょう、ともいったんです。あの人は振り返って、わたしをじっと見ました。からかわれているんじゃないかというような疑いの目で。(中略)しばらくしてから、こういいました。「おれがほんとに好きなのはスパニッシュライスです」って。それじゃ、つくってあげましょうって約束すると、にこっとしたようでした。それで、わたし、思ったんです―そう、この人は今まで出会った中でもいちばんの極悪人じゃないわって。(pp.460-461)

 

深いため息をついて、ペリーの痛みに思いを巡らせること。しばらくは元気を失って、悲観的になること。

 

社会問題の解決に向けた技術的な問題の議論は、いつもその過程をしっかりと経た後にしなければ空虚なものになってしまう。