『ロリータ』ウラジミール・ナボコフ
私はおまえを愛した。私は五本足の怪物のくせに、おまえを愛したのだ。なるほど私はあさましく、獣じみて、下劣で、何とでも言ってくれればいいけれども、それでも私はおまえを愛していたのだ、愛していたのだ!(p.507)
10年ぶりに『ロリータ』を再読。後半からのハンバートの墜落が哀れそのもので、一気に読ませる。
本作は、日本語の「ロリコン(小児性愛者)」の語源にもなっているあまりにも有名な作品だが、一般的には「変態おじさんが少女にいやらしいことをする話」くらいの認識をされているように感じる(私も読む前はそう思っていた)。しかし、実際の『ロリータ』は、そういった印象より、はるかに奥深く、どうしようもない悲しい物語である。
主人公のハンバート・ハンバートは教養も経済力もある30代の端正な紳士。もちろん女性にもてる訳だが、彼は12~14歳くらいの性的に成熟する直前の少女にしか本物の性欲を抱くことができない。あるきっかけから、未亡人シャーロットの家を訪問することになり、彼女の12歳の娘であるドロレスに恋して、彼女に近づく目的でシャーロットと結婚する。その後、シャーロットが交通事故で亡くなり、それからロリータ(ドロレスの愛称)をアメリカ中車で連れまわす淫欲の旅が始まる。
ハンバートは疑いの余地なく最低の男である。ロリータを神のように崇め奉るが、それはどこまでも性欲の対象としてである。ロリータを性的に搾取できる生活を維持することしか頭になく、彼女の健全な人間的成長には全く関心がない。ロリータが年を取ったらどうやって厄介払いしようか、あ、女の子を産ませればまた楽しめるじゃないか、などと考え出す始末。
しかし、そういった卑劣な心情には、精神を蝕む自己嫌悪と罪悪感という同居人がいる。ハンバートにとってロリータとの性交は、強烈な歓喜に舞い上がり、それから地獄に叩き落されることで終わる体験でしかない。事の終わりには、ハンバートは彼女が自分を愛することは絶対にないということを冷えた頭で感じ取る。そして、自分の薄汚さをまざまざと感じ、深い自己嫌悪の中に沈んでいく。初めて彼女をレイプした日から、二人の心の距離はどんどん離れていき、深い憎悪が育まれ、もう永遠に分かり合うことのできない場所まで来てしまう。ハンバートは、普段は自分を欺いて、自分の醜悪な行為を正当化したり、無視したりして生活しているが、この犯罪が明るみに出ることに常にどこかで怯えている。それなのに、この忌まわしい循環の輪から出ることが決してできない。この状況をどうやって幸福と呼べよう。
客観的には、ハンバートのような小児性愛者に対しては、「恋愛以外で、他人に迷惑をかけない何らかの喜びを見つけだして幸せになってください」としか言えないし、実際そうしてもらわないと困る。しかし、『ロリータ』を通じてハンバートの主観に入り込んだ時、そういったことが、本人にとってはいかに困難なことであるのかが分かる。小児性愛には成育歴の歪みなど色々な要因があるとされるが、「恋をする」という人間にとって自然な行為が、ことごとく犯罪行為に行き着いてしまうというのは、本人にとっても呪いのようなものだ。
人間によって許されることができない人間は、いかにして救済を得て生き延びていくことができるのか。『心臓を貫かれて』の感想で引用した石原吉郎は、加害者にとっての救済とは「加害者としての自己の位置の明確化」であるとしたが、ハンバートにとっての救済とは芸術、特に言語芸術として言及される。他者の言語芸術の中に自己への共感を見出すこと、自ら言語芸術において自己を表現すること。後者について、『ロリータ』は、ドロレスの死後に公表されるという約束の手記という体裁で書かれている。自分の罪を告白し、ドロレスの台無しにされた少女時代に、後の人々が半永久的に思いを馳せていけるように言語芸術として保存するという営みは、ハンバートにとって償いであると同時に、僅かばかりの救済であった。
いま私の頭の中にあるのは、絶滅したオーロクスや天使たち、色あせない絵具の秘法、預言的なソネット、そして芸術という避難所である。そしてこれこそ、おまえと私が共にしうる、唯一の永遠の命なのだ、我がロリータ。(p.552)
今、『ロリータ』を読んで、ハンバートが哀れだと思う。でもそれを率直に表現することに強い抵抗を感じる。それは、ドロレスの立場を思ってのこともあるが、ハンバートの罪に同情を示すことが社会に対する背信であり、自分自身の排除を予感させるからかも知れないとふと思った。