ポテトとサルバドーラ

海外文学の読書感想文

『朗読者』ベルンハルト・シュリンク

ぼくはハンナの犯罪を理解すると同時に裁きたいと思った。しかし、その犯罪は恐ろしすぎた。理解しようとすると、それが本来裁かれるべき形では裁けないと感じた。世間がやるようにそれを裁こうとすると、彼女を理解する余地は残っていなかった。でもぼくはハンナを理解したいと思ったのだ(p.180)

 

朗読者(新潮文庫)

朗読者(新潮文庫)

 

 

自分の愛する誰かが、明確な被害者のいる罪を犯した人間であるとき、私たちはその人を愛することをどうやって説明し、正当化することができるだろうか。「罪を憎んで人を憎まず」という言葉があるが、罪と人とは、そんなにあっさりと区別できるものではない。

 

舞台は第二次世界大戦後のドイツ。15歳の主人公は、倍以上に歳の離れた女性、ハンナに恋をする。しかし、ハンナは突然姿を消してしまう。その後、主人公は大学生になり、法学部に入る。そのゼミで裁判の傍聴に行った時、主人公は被告人席にいるハンナを見つける。

 

「わたしは……わたしが言いたいのは……あなただったら何をしましたか?」(p.129)

 

人は時に「それ以外どうしようもなかったこと」で裁かれ、罰を受ける。それは、刑事罰であることもあるし、社会的制裁であることもある。どちらの場合も、何らかの形でその烙印はその人の背中に残り続けるし、心の中には死ぬまでその罪業が居座り続ける。

 

本作の結末は悲しい。

 

裁くことと、理解することは、時に峻厳に対立する。法律というものは人々に公平に適用されるべきものであり、どうしてもつくりが粗い。そういった道具を使って人を裁こうとするとき、「理解」という主観的なものが入り込む余地は実際にはほとんどない。

 

「でもわたしは大人たちに対しても、他人がよいと思うことを自分自身がよいと思うことより上位に置くべき理由はまったく認めないね」

「もし他人の忠告のおかげで将来幸福になるとしても?」

父は首を左右に振った。

「わたしたちは幸福について話しているんじゃなくて、自由と尊厳の話をしているんだよ。幼いときでさえ、君はその違いを知っていたんだ。ママがいつも正しいからといって、それが君の慰めになった訳じゃないんだよ」(p.163)

 

ハンナのような絶望的な選択を迫られることは、そうそうあるものではない。しかし、私たちの行う選択というものは、いつもある部分で正しく、ある部分で間違っているものであり、それはどんな種類の決断でもそうだと言える。どんなに心を深く通じ合わせた相手であっても、それが皮膚で明確に隔てられた他人である以上、自己の決断をまるごと理解してもらうことは不可能であり、決断とは常に孤独なものだ。

 

私たちは、自分にとって切実な何かに対して、幸福ではなく、自由と尊厳の下に、間違いを含んだ選択を行う。そして、その責任をひとりで粛々と取って生きていく。