<番外編>映画『ジョン・F・ドノヴァンの死と生』
最近、とても忙しく、細切れの時間で本は読んでいても、なかなかまとまった感想を書けずにいた。
しかし、忙しい毎日に押し流され、見えやすい利益のために時間を使ってばかりいると、自分の外縁がどんどん希薄になっていくような嫌な感じがする。
そんなに長い時間は取れないけど、とにかく美しい何かに触れないと、風が吹けば飛ぶ人間になってしまうと思い、応急処置でグザヴィエ・ドランの新作を見た。ジョン・F・ドノヴァンの死と生。久々に興奮した。
本作のあらすじ。主人公のルパートは、人気俳優ジョン・F・ドノヴァンに憧れる孤独な少年。彼が、ジョンにファンレターを送ったら、返事が返ってきたというところから話が始まる。ジョンは、ルパートへの100通以上の手紙において自分のことを語り、その後、自殺をしてしまう。大人になり、憧れだったジョンと同じように俳優になったルパートは、新聞記者にジョンとの文通のことを語る。
言語によって、身近な他者に自己を表現するとき、その言葉は、星座を成すひとつひとつの星のようなものにしかなれないことがある。幸運な例外を除く多くの場合、他者が「わたし」を理解する時、その理解の形は、およそ分かりやすく輝く星々を繋いでできる星座のような大まかなものである。
しかし、はっきり見える星と星の間には、無数の見えない小さな星がぎっしりと詰まっている。主観的には、その取るに足らない星のひとつひとつが、代えがたい自分の過去であったり、なかったことにはしたくない感情だ。家族や友人に温かく支えられているように見える人であっても、了解された明るい星と星の間にある、無数の理解されなさ(≒孤独)を持っている。それは人間存在の前提といってもいい。
では、その孤独が治癒されることはないのだろうか。
それをかろうじて満たすものが、文学をはじめとする芸術作品の中の他者や、話すことができない人々なのだと思う。
生身の身近な人間というのは、その人についての情報が日々そこら中に横溢することで、存在としてとても騒がしくなってしまう。もちろんそういう存在によって、人は現実的に支えられ、心のある部分は満たされ、この世界を生きていくことが可能となっていく。
しかし、人々の間にあっても治癒されない孤独を埋めていくためには、自分自身の想像力をアクティベートできる静寂が必要だ。そういう静寂の中にあって、自分と一緒に居てくれる他者が、文学をはじめとする芸術作品の中の他者であり、会うことのできない人々である。
ルパートがジョンとの文通によって得たものは、そういう心の空白が満たされていく体験だったのではないかと思う。自分と似たような孤独を持ったジョンの存在は、彼が大人になって直面する様々な苦しみを乗り越えていくための慎み深い励ましとなった。完全なる孤独の中にあっても、彼の明星と明星の間の誰にも理解されないくず星の存在を認め、肯定するほとんど唯一の理解者として彼を勇気づけたのだろう(もちろんジョンが、悲しいほど不完全な人間であることは、これがグザヴィエ・ドランの作品である以上、言うまでもない)。
近頃なんだか調子が悪くなっていたのは、文学的な何かに本気で向き合わないことによってもたらされていたような気がする。
それは専門でもなければ職業でもなく、ひとつの資質、人間自体にかかわるなにか、彼の幸福の一部をなし、彼にとってこの上なく有用ではあっても、礼儀正しさや勇気や善良さが金にならないのと同じく、決して一スーの金ももたらさないなにかなのだ。(ヴァレリー・ラルボー『罰せられざる悪徳・読書』pp.27-28)
どんなに毎日多忙でも、その多忙によって得ようとしているものは、実は自分の手元に部分的には既にあるのだということをどうか忘れないように。