ポテトとサルバドーラ

海外文学の読書感想文

『本当の戦争の話をしよう』ティム・オブライエン

結局のところ、言うまでもないことだが、本当の戦争の話というのは戦争についての話ではない。絶対に。(p.140)

 

 

つい最近まで体調不良をきたすほど忙しかったのだが、先日ようやく一旦の区切りがつき、何か月も前に読んだ本の感想をようやく書ける心理状態になった。本作を読んだ時も既に相当忙しかったのだが、うっかり読み始めてしまったところ、これはどうしても読まなければならない本なのだと判明し、無理やり時間を作って読んだ。

 

本作は、ティム・オブライエンが自身のベトナム戦争の従軍経験を元にして書いた短編集である。フィクションの体裁を取ってはいるが、主人公の名前が作家の名前と同一であり、かなりのレベルで事実に依拠したものでありそうだ。

 

本作は、一貫して戦争の話をしている。しかし、それはいわゆる「戦争」の話ではない。オブライエンの語る戦争の話は、一人称で語られる徹底的に個別的な戦争の話である。

 

オブライエンは、明確なポイントや、分かりやすい教訓があれば、それは戦争の話ではないという。

 

本当の戦争の話には一般法則というものはない。それらは抽象論や解析で簡単にかたづけられたりはしない。たとえば戦争は地獄だという。教訓的な声明としてみればこの言うまでもない自明の理は完全に言うまでもなく自明に真実である。でもそれが抽象であり一般論であるがゆえに、私としては心の底からはそいつを信じることができない。(p.129)

 

戦争は地獄だ。でもそれは、物事の半分も表してはいない。何故なら戦争というものは同時に謎であり恐怖であり冒険であり勇気であり発見であり聖なることであり憐れみであり絶望であり憧れであり愛であるからだ。戦争は汚らしいことであり、戦争は喜びである。戦争はスリリングであり、戦争はうんざりするほど骨の折れることである。戦争は君を大人に変え、戦争は君を死者に変える。(p.133)

 

冒頭の引用の“戦争”という部分に、自分にとって切実な何かを当てはめて読んでみて欲しい。無限のディティールの集積でもってしか、できない話というものがある。

 

 

戦争を一般化して語るという営みは、政治的な運動をつくる上では役に立つことであるかも知れない。戦争に限らず、個別的な問題を一般化し、連帯することなしに、人は今となっては当然となったどんな権利も得られなかった。このように人は集団化することで力を得て、自由と平等を勝ち得てきたのだが、「正しさ」の名の下にできた集団の中に暴力性が潜むことは様々な歴史が教える。フランス革命も、日本の学生運動も、正しい目的の下に組織され、段々おかしくなっていき、多くの人を殺した。

 

戦場におかれた人間に、正しい行為をすることはおよそ期待できない。戦場とは、少しでも油断すると撃ち殺される場所であり、自分が生き残るために他人に対してありとあらゆる罪を犯す場所でもある。でも人は、正しい人間でありたい、という思いから逃れることはできないし、正しくあることを放棄するべきではない。国家によって押し出される形で戦争に参加し、死を免れるために相手を殺すしかなかったという「正当な理由」があると客観的には見えたとしても、主観的にもそう納得して生きていける人ばかりではない。

 

オブライエンは自分が殺した一人のベトナムの青年のことを書く。どんな青年だったのか細部まで夢想する。そして、もし自分があの瞬間に手榴弾を投げなかったら、有り得た別の物語を想像する。

 

今でもまだ、私はそれを整理し終えてはいない。あるときにはあれは仕方なかったんだと思う。あるときにはそう思えない。普通に人生を送っているときには、私はそのことをあれこれ考えたりしないようにしている。でもときどき、新聞を読んでいたり、部屋の中に一人で坐っていたりするようなときに、私はふと目を上げて、朝霧の中からその若者が現れるのを見ることがある。彼が私の方に歩いてくるのが見える。彼の背中は僅かに猫背気味である。彼の頭は片方にかしいでいる。私の前数ヤードのところを彼は歩き過ぎていく。そして何か考えてふっと微笑む。それから道を歩きつづけ、そのまま霧の中に消えていく。(p.221)

 

私は、この曖昧で、贖罪らしい贖罪が見えない、どこまでも個人的な思索の中に、集団的な暴力との決別の契機を見る。それは、修復できない被害に対しての、せめてもの加害者の「正しさ」の在り方である。

 

人は徹底的に個としてものを考えるときに、加害という事実について、それぞれが固有のやり方で向き合うことができる。そして、この固有性が、暴力性(≒集団性)から、その人を引き離す。

 

そういう意味で戦争という構造の一部として犯した罪を、万人に共感される分かりやすい言葉や物語をもってして贖罪とすることは、無個性なパーツとして人間をなぎ倒していく戦争によく似た危うさがある。

 

戦場に立ったことがなくても、人は生きようとするだけで、意図しなくても他者を傷つけてしまう。直接的な殺人を犯さなかったとしても、様々な次元での罪の上に生はある。そして、その加害の宿命の中で、修復できない被害に対してせめて「正しく」罪と向き合う人は、容易には周囲と溶け合わない(合えない)、固有の存在になっていく。オブライエンの姿のみならず、様々な加害者の物語を読んでもそう思う。決して一般化できない領域において、全くの個として犯した罪と向き合うことに、暴力のシステムから一時でも抜け出す契機があり、そこに加害者を照らすわずかばかりの希望があると思う。