ポテトとサルバドーラ

海外文学の読書感想文

『朗読者』ベルンハルト・シュリンク

ぼくはハンナの犯罪を理解すると同時に裁きたいと思った。しかし、その犯罪は恐ろしすぎた。理解しようとすると、それが本来裁かれるべき形では裁けないと感じた。世間がやるようにそれを裁こうとすると、彼女を理解する余地は残っていなかった。でもぼくはハンナを理解したいと思ったのだ(p.180)

 

朗読者(新潮文庫)

朗読者(新潮文庫)

 

 

自分の愛する誰かが、明確な被害者のいる罪を犯した人間であるとき、私たちはその人を愛することをどうやって説明し、正当化することができるだろうか。「罪を憎んで人を憎まず」という言葉があるが、罪と人とは、そんなにあっさりと区別できるものではない。

 

舞台は第二次世界大戦後のドイツ。15歳の主人公は、倍以上に歳の離れた女性、ハンナに恋をする。しかし、ハンナは突然姿を消してしまう。その後、主人公は大学生になり、法学部に入る。そのゼミで裁判の傍聴に行った時、主人公は被告人席にいるハンナを見つける。

 

「わたしは……わたしが言いたいのは……あなただったら何をしましたか?」(p.129)

 

人は時に「それ以外どうしようもなかったこと」で裁かれ、罰を受ける。それは、刑事罰であることもあるし、社会的制裁であることもある。どちらの場合も、何らかの形でその烙印はその人の背中に残り続けるし、心の中には死ぬまでその罪業が居座り続ける。

 

本作の結末は悲しい。

 

裁くことと、理解することは、時に峻厳に対立する。法律というものは人々に公平に適用されるべきものであり、どうしてもつくりが粗い。そういった道具を使って人を裁こうとするとき、「理解」という主観的なものが入り込む余地は実際にはほとんどない。

 

「でもわたしは大人たちに対しても、他人がよいと思うことを自分自身がよいと思うことより上位に置くべき理由はまったく認めないね」

「もし他人の忠告のおかげで将来幸福になるとしても?」

父は首を左右に振った。

「わたしたちは幸福について話しているんじゃなくて、自由と尊厳の話をしているんだよ。幼いときでさえ、君はその違いを知っていたんだ。ママがいつも正しいからといって、それが君の慰めになった訳じゃないんだよ」(p.163)

 

ハンナのような絶望的な選択を迫られることは、そうそうあるものではない。しかし、私たちの行う選択というものは、いつもある部分で正しく、ある部分で間違っているものであり、それはどんな種類の決断でもそうだと言える。どんなに心を深く通じ合わせた相手であっても、それが皮膚で明確に隔てられた他人である以上、自己の決断をまるごと理解してもらうことは不可能であり、決断とは常に孤独なものだ。

 

私たちは、自分にとって切実な何かに対して、幸福ではなく、自由と尊厳の下に、間違いを含んだ選択を行う。そして、その責任をひとりで粛々と取って生きていく。

『サンアントニオの青い月』サンドラ・シスネロス

パドヴァの聖アントニウスさま。どうか、セックスするとき痛くない人が見つかりますように。(…)料理をしたり掃除をしたりしているのを人に見られても恥ずかしいと思わない、じぶんの面倒はじぶんで見られる人がいいです。(…)あなたがちゃんとした男の人を送ってくれるまで、あなたの聖像をさかさまにしておきます。あんまり長いあいだじっとがまんしてきたので、いまではじぶんがインテリで、パワフルで、美しすぎて、どういう人間かはっきりわかっていて、いいかげんなものじゃだめってことが、じぶんでもわかりすぎていますから。(p.199)

 

 

サンドラ・シスネロスは「フェミニスト作家」であると言われているが、この人の作品には革命や運動に伴うきな臭さがない。そこに描かれるのは、イズム以前に溢れ出す生命力、感情豊かな女たちの「何がなんでも生きて、幸せになってやる」というエネルギーである。

 

もちろん彼女たちの日常には、DVや貧困の問題(フェミニズムの中心的テーマ)が横たわり、そこにメキシコ移民に対する人種差別なども加わってくる。そういった差別の問題を背景に据えつつも、シスネロスの関心は、抑圧の中で女がどうやってしぶとく生きていくのかにある。被害者としてだけではなく、あくまで自分の人生をコントロールする主体としての女。そういう姿勢に、彼女たちの生への尊重と信頼を感じる。

 

本作は、メキシコとアメリカを舞台に、様々な年齢や立場の女性たちが、それぞれの生活や愛や感情について語る短編集である。

 

英題の表題作「女が叫ぶクリーク」は、DV夫から逃げ出す女性が、女の自立の可能性に初めて触れる瞬間を切り取った物語。主人公のクレオフィラスの逃亡を手伝ってくれることになるフェリスは、彼女が初めて出会う自分のお金で買った車に乗る女であった。さらにフェリスは「ターザンみたいに叫びたくなるから」という理由で、川を渡るときに大声をあげてゲラゲラと笑い、クレオフィラスを驚かせる。しかし、最後にはクレオフィラスも一緒になって笑い始めるのだ。ここの詩情がすごく良い。

 

それと、冒頭に引用したような強気なお祈りが連なる「ちいさなお供え、立てた誓い」にも笑った。

 

聖母グアダルーペさま。(中略)あなたには胸もあらわで、手には蛇を持っていてほしかった。牡牛の背中で飛び跳ねたり、トンボ返りをうったりしてほしかった。生の心臓を飲み下して、ゴロゴロと火山灰を吐き出したりしてほしかった。わたしは母さんやおばあさんのようになるつもりはなかったから。みんな、じぶんを犠牲にして、黙々と苦しみに耐えている。そんなのは絶対にイヤです。ここではダメ。あたしはイヤです。(p.220)

 

わたしは母親にはなりたくないんです。父親になるならいいんだけど。せめて父親なら、そのままアーチストでいられて、だれかを愛するのではなく、なにかを愛することができて、それがわがままだなんてだれにもいわれません。(p.218

 

シスネロスは読んでいてとても楽しい。「気分の悪いことも起こるけど、今日もまあ頑張るか」と思わせてくれる。世の中を変える原動力は、怒りや正義感のように持ち続けるのがとてもしんどい気持ちだけではない。

 

前作の『マンゴー通り、ときどきさよなら』も、素晴らしいので合わせて読みたい。過酷な状況に泣きながらも、軽やかに、ユーモラスに、しぶとく生きる少女の姿がとても頼もしい。

 

いつか、本と紙をバッグにつめよう。いつか、マンゴー通りにさよならをいおう。わたしはあんまり強すぎるから、永久にここに留まらせておくことはできないよ。いつか、わたしは出ていくからね。(『マンゴー通り、ときどきさよなら』P.163)

 

 

『夜の果てへの旅』セリーヌ

戦争をきっぱり否定するのさ、そいつに加担する連中も、なにもかも、そういう連中とも、戦争とも、僕はなんのかかり合いも持ちたくない。たとえ奴らが七億九千五百万人で、僕のほうは一人ぼっちでも、間違っているのは奴らのほうさ(上巻p.105)

 

夜の果てへの旅〈上〉 (中公文庫)

夜の果てへの旅〈上〉 (中公文庫)

 
夜の果てへの旅〈下〉 (中公文庫)

夜の果てへの旅〈下〉 (中公文庫)

 

 

「かつて人間の口から放たれた最も激烈な、最も忍び難い叫び」、「全世界の欺瞞を呪詛し、その糾弾に生涯を賭けた」、「不遇と貧困のうちに歿し、その墓石には≪否(ノン)≫の一語だけが刻まれた」など、セリーヌを評する言葉には全て、何かとてつもなく暗いものを感じる。従軍経験から得た徹底的な反戦思想を持ち、第二次世界大戦時には、ユダヤ資本に戦争責任を求めて反ユダヤ主義の論陣を張った。戦後、セリーヌ国賊作家として投獄され、今でも作品の一部が本国フランスで発禁処分となっている。

 

『夜の果てへの旅』はセリーヌの半自伝的小説である。主人公バルダミュは、第一次世界大戦に従軍し、負傷する。退院後、フランスの植民地であったアフリカのある国に渡り、その後アメリカへ、そして最後にフランスに帰国し、医者になる。

 

当初セリーヌは、とにかく性格が悪くてしぶとい奴なんだろうと思っていたが、それは全く違った。彼はあまりにも繊細で、だからこそ繰り返される人間の悪に、永遠に慣れることができなかったのではないのかと思う。貧困と戦争に順化すれば不可視になっていく他人の不幸に、いつまでも胸を痛め続けてきたということだ。「善」をめぐる揺るがぬ視点があったからこそ、セリーヌにとって世界はいつも愚劣であり、呪詛すべきものだった。

 

訳者の生田耕作は、セリーヌは出来事をけっして客観的には描写せず、常に事件は、それが惹起する情感と分かちがたくとけ合って描き出されると指摘し、その文学的手法を「過敏症的リアリズム」と銘打った。セリーヌはそれをどれだけ自覚的にやっていたのだろうかと思うと心許ない。少なくとも、その過敏性そのものは操作可能なものではなかっただろうと思う。

 

バルダミュは20歳で初めて戦場に立った時、ドイツ兵がこちらに向かって発砲してくるのを見て、これは誤解だと咄嗟に考える。自分はドイツの学校に通っていたこともあるし、ドイツ人とはよくビールを飲んだし、恨みを買った覚えもないから、相手は自分のことが見えてないから打ってくるんだと。

 

戦争はようするにちんぷんかんぷんの最たるものだ。こんなものが長続きするわけがない(中略)いわば大がかりな、世界をあげての悪ふざけ(上巻p.16)

 

もう間違いない、犬より始末が悪いことに、奴には自分の死が想像できんのだ!同時に僕にはわかった、僕らの軍隊にはこいつのような奴が、勇敢な連中が、大勢いるのにちがいない、そして、お向かいの軍隊にも、たぶん同じだけ。(中略)こんな奴らといっしょでは、この地獄のばか騒ぎは永久に続きかねない…奴らがやめるわけがあろうか?人間世界のやりきれなさをこれほど痛切に感じたのは初めてだった(上巻p.18)

 

バルダミュは負傷して前線から戻った後に発狂し、隔離された軍の病院へ入院する。病院の隣は救貧院であり、そこに収容された老人たちが軍人たちの病室を毎日うろついている。その場面における悪態の、なんと鮮やかなこと。悪態もここまで研ぎ澄まされると、もはや立派な鑑賞の対象である。

 

彼らは部屋から部屋へ、陰口を虫歯のかけらと一緒に吐きちらしていくのだった、とうの立った噂話と中傷の切れっぱしを持ち廻って。どぶ池の底みたいな公認貧乏の中に閉じ込められて、この老朽労働者たちは永年の屈従生活の果てに魂にこびりついた糞を食らって生きているのだ。小便臭い共同病室の怠惰の中ですえきった無力な憎悪。老い衰えた最後のエネルギーを傾けて、彼らはひたすら、今生の名残にお互いを傷つけ合い、わずかに残された快楽と呼吸の中で互いに撃破し合うことに専念しているのだ(上巻p.144-145)

 

放浪の末、フランスに戻り、医者になった後も極貧生活は続く。普通は苦学して医者になれば、食い扶持に困ることはなさそうなものだが、バルダミュは患者から金を取れないのだ。

 

≪謝礼金!…≫奴らはそいつを相変わらずそう名付けていた。僕の同業者どもは。平気で!この言葉さえ持ち出せば、大義名分が成り立つみたいに…恥だ!(中略)貧乏人から、哀れな連中から百スウを受け取った奴は、永遠に汚らわしい野郎であることに変わりはない!(下巻p.49)

 

僕の取り柄は、結局、一つきりだったのだ、(中略)つまり、ほとんど無料に等しいということだった、そいつは、無料の医者というものは、病人とその家族の顔に泥を塗るものだ、たとえその家族がどれほど貧しかろうと(下巻p.65)

 

僕の場合は完全に眠れる日はもう二度と訪れそうにはなかった。いわば僕は信頼の習慣をなくしてしまったのだ、人間のあいだで心置きなく眠るためにぜひとも必要な、考えてみればとてつもなく大きな信頼を。それを、そういう無頓着を、わずかでも取りもどし、自分の不安を中和させ、愚鈍な幸せな落着きを取り戻すためには、少なくとも病気か、高熱か、具体的な災害が必要に思われた。何年間かを通じて、憶い出せる平穏な日といっては、高熱の風邪にかかった数日間ぐらいのものだ(下巻p.299)

 

セリーヌ反ユダヤ主義的作品は、現在でもフランスでは発禁となっているが、日本語の全集には収録されている。それらの作品は、内容的にはかなり乱暴で明らかにまずいものなのだが、結局セリーヌが言いたかったことは「戦争反対」という一貫した主張であり、ユダヤ人はいわばとばっちりを受けたという構図に見える。ナショナリズムは、分かりやすい敵を外部に作ることでひとつの民族集団における不満を抑え込み、その団結力を高める効能があるが、セリーヌは果たしてその輪のなかに含まれたことが一度でもあったのだろうか。

 

セリーヌほど、この人はひとりぼっちなんだという印象を強く持った作家はいない。

『旅路の果て』ジョン・バース

人は、やってしまったことをもって、やりたかったこととして責任を取らなければならない(p.161)

 

旅路の果て (白水Uブックス (62))

旅路の果て (白水Uブックス (62))

 

 

痺れた。ジョンバース、旅路の果て。こんなに面白いとは。

 

本作は「不倫」という現象をめぐって、「選択とは何か?」「自由とは何か?」を夫、妻、間夫(主人公)の三者間で執拗に議論していく、素晴らしく理屈っぽい不倫小説である。

 

主人公はジェイコブ・ホーナー(ジェイク)という英文法の大学講師であり、しばしばあらゆる選択が不可能になって心身が硬直状態に陥る「麻痺」を患っており、身分の定かでない謎の医者にかかっている。彼が突然陥る特徴的な症状に、「天気なし(空から天気が消滅するかのように、自分自身の心にどんな気分もなくなる状態)」というものがある。ジェイクとは、こんな風に捉えどころがなく、ウィットに富んだ、たまらなく魅力的な男である。「弁の立つバートルビー」とでも評したい。

 

ジェイクと同じ大学で働くタフガイ、ジョー・モーガン。彼は、「神」のように明晰で、自分自身の一貫した立場をどんな状況でも堅持して生きる。他人に興味を持つことのないジョーが、ジェイクに深い関心を抱いて自宅に招き、そこで彼の妻レニーと出会うところから、この三角関係は始まる。

 

レニーは、「自分が空っぽであるということを知っている数少ない女」であり、夫ジョーに強い憧れを抱いて、彼のように徹底的に一貫した自分の立場なり価値観なりを得て、その空白を満たそうとしている。夫婦の間では、お互いが対等であるということを陰に陽に表明しているものの、レニーの方は、自分を捻じ曲げてでもジョーに合わせて生きたいと願っている。

 

■弁解してはならない

ジョーは、レニーが、自分の家に家具が少ないこと(しかし自分たちは何不自由なく生活している)を、訪問した友人に詫びたという理由で殴る。なぜなら、他人と自分の価値体系は決して重なることはないのであり、相手と意見が違うことに関して弁解することは、自分の価値観や立場を固持して生きる上での危機であると感じたからである。

 

ぼくの倫理学では、およそ人間にできるせいぜいのことは自分の立場からそのまま出てくること。それを弁護しようなんて思ったり、まして他人にそれを受け入れてもらおうなんてする一般的理由は何もなくて、できることはただ一つ、その立場で動けということ、ほかには何もないんだから。ほかの人たちや団体なんかとは衝突するに決まってるんだ、それらのものは、それらの立場からは正しいんだから。だけどその立場はこちらの立場とは違うんだ。(p.69)

 

なあ、ジェイク、自分の倫理体系が一筋縄のものでなくなれば、破綻しないでいるためには、それだけ強くならなければならない。だから、客観的価値体系にサヨナラを言うときには、力をため、目を見開いていなければならないんだ、自力で立っているんだから。(p.71)

 

 

■実存は選択である―「やったこと」は、「したかったこと」

また、人間の選択についてのジョーの信念は以下の通りである。人間の行為とは常に、「したい」という欲望と、「したくない」という欲望を比較検討して、価値の多い方を選び取った結果であるという。

 

一人の人間の欲望の唯一の論証可能な指示索引(インデックス)はその人間の行動だよ、過去のことを問題にする限りね。つまり、ある男の行ったことは、その男の行いたいと欲したことなのだ(p.74)

 

プラス百とマイナス九十九を合わせるようなもんだな(中略)その結果はかろうじてプラスということだが、しかし、完全なプラスだ。そういう意味でもバカげているんだ、自分のやってしまったことを弁解して、ほんとはそんなことをしたくなかったんです、なんて言うのは。やりたいと欲したこと、それが最終的には、やったことなんだ。(p.74)

 

レニーはそんなジョーに強い憧れを抱き、「異常な自己消去(p.98)」をもって、彼の優秀な生徒たらんとする。他人に決して影響されずに、自分の立場なり価値観なりを強く維持できる人間となること、それが彼女の最も強く望んだことである。

 

ジョー(≒「理性」「存在」)に憧れるレニーは、ジェイク(≒「不合理」「非存在」)を自分の立場を持たない人間として忌み嫌い罵倒する。しかし、ジョーは、ジェイクを、自分とは異なる形でありながら、自分と互角の「第一級の精神」の持ち主と認める。そして、レニーに彼から刺激を受けて欲しいと望み、2人が定期的に話し合えるような機会をわざわざ作る。ある時、ジェイクはレニーに「君にも個性があるはずだ」と言う。

 

あなたはイミテーションのジョー・モーガンになるよりは本物のレニー・マクマホンになるほうがいいって言ってるけど、それは自明の理じゃないわよ、ジェイク。ぜんぜん違うな。ロマンチックなだけよ。わたしは第一級のレニー・マクマホンよりも、つたないジョー・モーガンになりたいの。プライドなんてどうでもいい。そんなユニークな個性なんてことも、絶対じゃないものの一つよ(p.92)

 

正直、なぜジョーがこんなにあなたと親しいのか、わからない。いままで誰にも興味なんかもっていなかった(中略)わたしが時々こわいと思うのは、いろいろな面であなたが完全にジョーと違っているわけじゃないってこと。あなた、彼にそっくりよ。同じ文句を聞いたことだってあるわ(中略)あなたは、いろいろ彼と同じ前提からものを始めるの(p.94)

 

「ねえ、わたし、ほんとにこわかった、あなたが、しばらくのあいだ。ジョーのほうがあなたより強いんだってこと、ほんとうは、そう思えないような時があったの。ジョーの論理であなたがつかまりそうになるとたん、あなたはもうそこには存在しないんですもの。もっと悪いことは、あなたの立場が崩れたときでも、ジョーが、ほんとはあなたに接触もしてないような気がした―あなたがどんな立場を取っても、そこには接触できるほどのあなたが存在しないんですもの」

「鋭いことを言うね」と言ってぼくは笑った。

「それよ、その調子よ」とぼくの言葉尻をつかまえて―「あなたの論理の支えになるものをジョーが取り払ってしまっても、あなたは笑うだけ」(p.99)

 

レニーとジェイクはある時、まったく「無意識的に」、性交に至る。その事実をレニーから聞かされた夫ジョーは、その時レニーは、そしてジェイクは、何をどう感じ、どのような思考回路を経てその行為に至ったのかについて究明したいと強く望む。

 

ジョーは、仕事を休んで3日3晩、まずはレニーと話し合い、次にジェイクの元に行って「きみの考えでは、なぜそんなことをやった?」と問い詰めるが、ジェイクは「わからない」「責任はとる」と繰り返す。しかし、それに対してジョーは以下のようにいう。

 

きみは、ぼくが十戒の七番目についての考えなんか知りたいと思うか?ぼくは姦通や欺瞞を罪として反対してるんじゃないぜ、ホーナー。(中略)事実と事実についての解釈を残らず聞きたいんだ(p.162)

 

夫ジョーはレニーに、今回のことを巡って、どんな考えや感情を持ってやったのかを問い詰めるも結局レニーから十全な説明を得ることはできない。そこでジョーは、嫌がるレニーに、それが理解できるまでジェイクと不倫を続けて、そのことを考えるように促すのである(なんということ!)。そうでなければ、この重要問題を彼女はすばやく抑制してしまうだろうと。

 

「わたし、そんなこと、恐ろしくて嫌だって言った。彼、そういう種類の反動こそ警戒しなければいけない、そういう反動は問題の所在を曖昧にするって言うの。わたしたちはほんとうに信じていることについてはできるだけ正直になり、安全だと思われること、信じたほうが無難だと思われることなどとごっちゃにしてはいけない。そうして、わたしたち、ほんとに信じていることに基づいて行動することによって、現在の位相がわかってくるって言うの。」

(中略)

「ああ、ほんと!あなたならどうする?」

「ぼくなら、彼に、地獄へ失せやがれ!と言ったね」(p.185)

 

実は、レニーの感じていることは、対立感情でも、いや、複雑でもなんでもないことがわかっている。これは単純素朴なこと(中略)、彼女がそれに『愛』だとか『忌み嫌い』だとか、普通名詞的なレッテルを貼ろうとしたところからのみ問題が生じるのだ。ものごとは、その間の差異を無視する場合にのみ、共通の単語によって表示することができる。だが、この、ものごとの間の差異こそ、感じるところ深い場合には、共通の単語では役に立たず、素人(しかし通は違う)をして逆説なり対立感情なりが生じたと思わせるものなのだ(p.210)

 

■「意見なし」の自分で生きること

自己維持のために一貫した立場を必要とするレニーは、自分と同じように空っぽであるにも関わらず融通無碍に生きることに何の咎も感じないジェイクに対して、強い嫉妬や羨望を感じたのではないか。そして、無意識的に、ジョーに対抗する手段として「ホーナー成分」のようなものを摂取したいと望んだのかも知れない。

 

完全な論理武装を行い、どんな他人の意見にも一切揺らがないような人間が配偶者であることは、相当に苦しいことだと思う。いつも自分が間違っていると非難されているような気分になる一方で、自分は相手にどんな影響も与えることができないのだから。

 

多分、彼女のやるべきことは、簡単に論破されそうな稚拙な意見であっても、自分に人間として備わっている最低限の感受性で察知した快/不快を、正誤以前の絶対的根拠として、「地獄へ失せやがれ!」と自分の夫に言うことだったように思う。まあ、そういった行為の主観的な難易度の高さは、本作を読めば痛いほど分かるのだが。

 

両極の意見の間でふらふらし、気分が常に移り変わり、挙句の果てに「天気なし」になったり、麻痺状態になるジェイクが、ジョーと同じように「第一級の精神の持ち主」である所以は何なのか。

 

それは、ジェイクが、自分自身の無軌道性を知り抜いており、それを一定程度言語によって説明可能な状態にまで客観的に理解しており、かつそのことを平静に全面的に受け入れているという事実である。ジェイクはジョーと対比的に描かれながらも、自分はどこまでも自分自身でしかいられず、それについて弁解することは生きる上での危機である、というジョーのスタンスを共有している。それが結果的に「完全なる無軌道」として確固たる一つの軌道をなしているのではないか。

 

ぼくたちは、まことに、めいめい一人であった。泣くものは自らの悲しみに泣くのだ(p.225)

 

彼等の旅路の果ては、ハッピーエンドではない。しかし、ここまで行き着いた不倫には、もはやスタンディングオベーションを送るほかない。

『ロリータ』ウラジミール・ナボコフ

 私はおまえを愛した。私は五本足の怪物のくせに、おまえを愛したのだ。なるほど私はあさましく、獣じみて、下劣で、何とでも言ってくれればいいけれども、それでも私はおまえを愛していたのだ、愛していたのだ!(p.507)

 

ロリータ (新潮文庫)

ロリータ (新潮文庫)

 

 

 10年ぶりに『ロリータ』を再読。後半からのハンバートの墜落が哀れそのもので、一気に読ませる。

 

 本作は、日本語の「ロリコン小児性愛者)」の語源にもなっているあまりにも有名な作品だが、一般的には「変態おじさんが少女にいやらしいことをする話」くらいの認識をされているように感じる(私も読む前はそう思っていた)。しかし、実際の『ロリータ』は、そういった印象より、はるかに奥深く、どうしようもない悲しい物語である。

 

 主人公のハンバート・ハンバートは教養も経済力もある30代の端正な紳士。もちろん女性にもてる訳だが、彼は12~14歳くらいの性的に成熟する直前の少女にしか本物の性欲を抱くことができない。あるきっかけから、未亡人シャーロットの家を訪問することになり、彼女の12歳の娘であるドロレスに恋して、彼女に近づく目的でシャーロットと結婚する。その後、シャーロットが交通事故で亡くなり、それからロリータ(ドロレスの愛称)をアメリカ中車で連れまわす淫欲の旅が始まる。

 

 ハンバートは疑いの余地なく最低の男である。ロリータを神のように崇め奉るが、それはどこまでも性欲の対象としてである。ロリータを性的に搾取できる生活を維持することしか頭になく、彼女の健全な人間的成長には全く関心がない。ロリータが年を取ったらどうやって厄介払いしようか、あ、女の子を産ませればまた楽しめるじゃないか、などと考え出す始末。

 

 しかし、そういった卑劣な心情には、精神を蝕む自己嫌悪と罪悪感という同居人がいる。ハンバートにとってロリータとの性交は、強烈な歓喜に舞い上がり、それから地獄に叩き落されることで終わる体験でしかない。事の終わりには、ハンバートは彼女が自分を愛することは絶対にないということを冷えた頭で感じ取る。そして、自分の薄汚さをまざまざと感じ、深い自己嫌悪の中に沈んでいく。初めて彼女をレイプした日から、二人の心の距離はどんどん離れていき、深い憎悪が育まれ、もう永遠に分かり合うことのできない場所まで来てしまう。ハンバートは、普段は自分を欺いて、自分の醜悪な行為を正当化したり、無視したりして生活しているが、この犯罪が明るみに出ることに常にどこかで怯えている。それなのに、この忌まわしい循環の輪から出ることが決してできない。この状況をどうやって幸福と呼べよう。

 

 客観的には、ハンバートのような小児性愛者に対しては、「恋愛以外で、他人に迷惑をかけない何らかの喜びを見つけだして幸せになってください」としか言えないし、実際そうしてもらわないと困る。しかし、『ロリータ』を通じてハンバートの主観に入り込んだ時、そういったことが、本人にとってはいかに困難なことであるのかが分かる。小児性愛には成育歴の歪みなど色々な要因があるとされるが、「恋をする」という人間にとって自然な行為が、ことごとく犯罪行為に行き着いてしまうというのは、本人にとっても呪いのようなものだ。

 

 人間によって許されることができない人間は、いかにして救済を得て生き延びていくことができるのか。『心臓を貫かれて』の感想で引用した石原吉郎は、加害者にとっての救済とは「加害者としての自己の位置の明確化」であるとしたが、ハンバートにとっての救済とは芸術、特に言語芸術として言及される。他者の言語芸術の中に自己への共感を見出すこと、自ら言語芸術において自己を表現すること。後者について、『ロリータ』は、ドロレスの死後に公表されるという約束の手記という体裁で書かれている。自分の罪を告白し、ドロレスの台無しにされた少女時代に、後の人々が半永久的に思いを馳せていけるように言語芸術として保存するという営みは、ハンバートにとって償いであると同時に、僅かばかりの救済であった。

 

いま私の頭の中にあるのは、絶滅したオーロクスや天使たち、色あせない絵具の秘法、預言的なソネット、そして芸術という避難所である。そしてこれこそ、おまえと私が共にしうる、唯一の永遠の命なのだ、我がロリータ。(p.552)

 

今、『ロリータ』を読んで、ハンバートが哀れだと思う。でもそれを率直に表現することに強い抵抗を感じる。それは、ドロレスの立場を思ってのこともあるが、ハンバートの罪に同情を示すことが社会に対する背信であり、自分自身の排除を予感させるからかも知れないとふと思った。

『冷血』トルーマン・カポーティ

感受性が高く、繊細な人間というのは、世の中に不可欠な存在である。他者の痛みに共感し、その傷にそっと手を当てることができる人間がいない世界は、弱肉強食の荒野である。この世界をせめて生きられるものに変えてくれる「芸術」を生み出すのも、多くの場合、彼らのような感性をもった人間である。

冷血 (新潮文庫)

冷血 (新潮文庫)

 

1959年にカンザス州で一家4人を惨殺した本作の主人公ペリー・スミスは、例えばそんな人間だった。彼は、感受性の豊かな夢想家であり、歌とギターの才能に恵まれ、リスや子どもを愛していた。

 

両親の離婚後、酒乱の母親から引き離されたペリーは、孤児院で虐待されて育った。父に引き取られた後も教育を受けさせてもらえず、家を出た後は、教養に強烈な憧れを抱いたまま、刑務所に出入りする生活を送ってきた。ペリーは生きていく過程で、人間として受けて当然の最低限の愛情や配慮を受け損ね、社会の周辺に追いやられ、這いつくばるようにして生きてきた。

 

感受性の豊かな人間は、人の悪意もたくさん傍受してしまう。心も脆弱で、とても傷つきやすい。繊細であるということは、悲しいことに、世の中の悪意をたくさん吸い取ってしまう分、鈍感な人たちよりも心に憎しみを生成してしまいやすいのかも知れない。

 

ペリーの中で、長い年月をかけてゆっくりと、でも不可逆的に膨らんだ、風船のような世の中に対する憎しみは、不幸な偶然が重なった瞬間に、「これくらいの復讐をしても良いのだ」と加害の側に本人を押し出す形で爆発する。それは、ほとんど制御の手の届かない場所で起こる破裂だった。

 

犯行中のペリーは、縛り上げた家族が寒くないように、苦しくないように、ダンボールやまくらを敷いてやったり、娘を強姦しようとした共犯者のディックを「殺す」と脅して止めたり、屋敷に金が無いと分かったら、もうこんなこと止めてずらかりたいなあと夜空を見ながら思案したり、あなたや私のように「まとも」なのである。しかし、世に対する恨みの蓄積が、犯行を決意するときや、家族に向かって引き金を引く一瞬一瞬に、彼の頭を乗っ取って「殺人」という残虐行為を可能ならしめていく。

 

彼らのような人々の加害行為の矛先は、他者のみならず、自己破壊へも向かっていくように思う。というより、自己破壊の末に、他者への加害に向かう、という感じだろうか。

 

この恨みの爆発がもたらす凶行は、端的に悲劇である。こんなにもどうしようもないペリーの境遇を考えてみてもなお、殺人は忌まわしく、犯人に重罰をと叫ぶ人々の恐怖や怒りには、どんな疑問も差し挟む余地がない。

 

死刑に行き着いたペリーの人生の道程には、曲がれる角があったはずだ。ペリーが収監された拘置所の寮母であったマイヤー夫人は、ペリーに初めて会った日のことをこう話した。

 

あの人に、何か特別に好きなお料理はあるの、と聞いてみました。もし、あるんだったら、あした、つくってあげましょう、ともいったんです。あの人は振り返って、わたしをじっと見ました。からかわれているんじゃないかというような疑いの目で。(中略)しばらくしてから、こういいました。「おれがほんとに好きなのはスパニッシュライスです」って。それじゃ、つくってあげましょうって約束すると、にこっとしたようでした。それで、わたし、思ったんです―そう、この人は今まで出会った中でもいちばんの極悪人じゃないわって。(pp.460-461)

 

深いため息をついて、ペリーの痛みに思いを巡らせること。しばらくは元気を失って、悲観的になること。

 

社会問題の解決に向けた技術的な問題の議論は、いつもその過程をしっかりと経た後にしなければ空虚なものになってしまう。

『百年の孤独』ガブリエル・ガルシア=マルケス

 マルケスを読んでいると、人間の愛や憎しみなどの感情は、決して秩序だったものではなく、本人以外は(あるいは本人ですら)容易に理解できない混沌である、ということに深く得心する。

 

百年の孤独 (Obra de Garc´ia M´arquez)

百年の孤独 (Obra de Garc´ia M´arquez)

 

 

 ちょうど本作を読んでいる時に、新国立美術館のウィーンモダン展に行ってきたのだが、その時、クリムト率いるウィーン分離派が描画を通じて到達しようとした「ヌーダヴェリタス(裸の真実)」なる概念を知って、なんだかマルケスの作品みたいだと思った。マルケスのみならず、ラテンアメリカの作家の描く混沌は、整然とした日常世界の皮を一枚剥がした場所に広がる裸の真実であるように思う。

 

 本作『百年の孤独』は、ブエンディア家の百年の歴史とその崩壊を描いた物語である。世界文学必読リストに必ず載る名作だが、あらすじが漠然としていて、登場人物の名前もどうしようもなくややこしいので、なんとなく敬遠していた。しかし、『コレラの時代の愛』が私の人間認識(とりわけ「愛し合う」という人間の営為をめぐってのそれ)を作り変えてしまうような印象深い作品で、その勢いで読んだ『予告された殺人の記録』はさっぱり面白くなくて、三度目の正直としてようやく『百年の孤独』に手を出すに至った。端的に、読んでよかった。

 

 性的な様相を帯びる、愛の不可分性。複数人を同時に愛する、双子が一人の人間のふりをして女を共有する、さっき生まれたばかりのような相手と結婚したがる、同居する年嵩の叔母を追い求めるなど、禁忌も何もあったもんじゃない愛の展開を見ていると、「不倫もの」、「小児性愛もの」、「近親相姦もの」といった小説や映画のジャンル分けが、どんどん無化されていく。彼らの愛をおしとどめることのできる防波堤は何もなく、その破壊的な力を前にして、愛を名付けようとする上品な努力ほど無意味なものはない。まず愛が在る。善悪は、事の成り行き次第で事後的に決まる。

 

 憎しみの在り方にしても、殺した相手が幽霊になって出てきて、殺した方もなんだか懐かしくなって旧交を温める場面など、まず亡霊っておかしいという点も忘れ去ってしまうような、衝撃を与える。

 

それは実は、プルデンシオ・アギラルだった、ようやく彼だとわかったとき、死人もまた歳を取るのだという事実に驚きながらも、ホセ・アルカディオ・ブエンディアは全身を揺さぶられるような懐かしさを感じて叫んだ。「プルデンシオじゃないか!こんな遠いところまでよく来てくれた!」死んでから月日がたつにつれて、生きている者を恋うる心はいよいよ強く、友欲しさもつのるばかり、死のなかにも存在する別の死の間近なことに激しい恐怖を感じて、プルデンシオ・アギラルは最大の敵である男に愛情を抱くようになったのだ。(p.99)

 

 人間の感情や、その発露としてのあらゆる行為が、本人以外の他者にとって十全に説明可能であることなんて本当はないのだ。

 

 存在しない「純粋」を志向することは、時に自分や他者を深く傷つける。私たち「文明人」はもちろん、つつがなく現実世界を生き抜いていくために、それなりに規範や秩序を守って生きていく訳だけれど、一枚めくれば世界は混沌なんだということを、地下組織よろしく時々目配せして確認し合う必要がある。