ポテトとサルバドーラ

海外文学の読書感想文

『私人』ヨシフ・ブロツキイ

とある書評を読んで手に取ったブロツキーのノーベル賞受賞講演『私人』が素晴らしく良い。本自体も薄いということもあるが、何度も繰り返し読む。

 

 

なぜ文学作品はこの世に必要なのか、という問いに対する答えを、日々考えるともなく考えている。

 

『私人』は、この大きな質問について、美しい言葉で答える。

 

ブロツキーは言う。芸術に向き合う時、私たちは作者と1対1の直接的な関係を結び、そこにおいて私たちは、私たちを均質化する「公」から切り離され、ひとりの固有の「私人」となる。そして、「私人」となって思考することこそが、私たちを間違った政治や奴隷化から守るからだと。

 

もしも、われわれが支配者を選ぶときに、候補者の政治綱領ではなく読書体験を選択の基準にしたならば、この地上の不幸はもっと少なくなることでしょう。そう私は信じて疑いません。われわれの支配者となるかも知れない人間にまず尋ねるべきは、外交でどのような路線を取ろうと考えるかということではなく、スタンダールや、ディケンズ、ドストエフスキイにどんな態度をとるかということである―そう私は思います(p.22)

 

芸術が何かを教えてくれるとすれば(…)、それはまさに、人間存在の私的性格でしょう。芸術はもっとも古い―そして最も本来的な意味で―私的活動の形態であるがゆえに、どう転んでも結局、自分が個別で、独自な、二つとない存在であるという感覚を持つように人間を鼓舞し、人間を社会的動物から個人へと変身させるのです(p.9)

 

審美的な体験は常に私的な体験です。新しい美的表現はどのようなものであれ、それを体験する人間をいっそう私的な個人に変え、このような私的存在のあり方は、時に文学的な(あるいは別の何らかの)趣味の形を取ることがありますが、それ自体として既に、人間の奴隷化を防ぐ保証とまではいかないにしても、人間を奴隷化から守る一つの手段となり得ます(p.16)

 

「皆と違う表情」を獲得することにこそ、個人として生きることの意味があるのではないでしょうか(p.10)

 

自分だけの表情の獲得。そういえば、オーウェル『1984年』の全体主義のディストピアにおいて、皆と違う表情をすることは「表情犯罪」として処罰の対象であった。

 

どんなに一人でいる時間を愛する人間でも、時々は社会生活上の必要から、同調的な関係性の中に身を置かなければならないこともある。あるいは、一人で考えた結果を生きることが耐えがたくなり、自ら親和を求めることもあるだろう。しかし、そういう時間を持ったら、一人でゆっくり本を読んで、自分を「私人」として修復する必要がある。それは個人的な営みであると同時に、均質化を拒絶し、民主主義の前提を守ること、個として生きることが許される世界を守ることである。

 

詩人であるヨシフ・ブロツキーは、スターリン政権下で、有益な仕事につかない「徒食者」として強制労働の刑を受け、最終的にはアメリカに亡命する。全体主義の悲惨を生き延びた詩人が口にする文学への信頼には静謐な重みがあった。

 

『Dr. レイ』バリー・ハナ

レイを創造した者がなんであれ、彼には大きなセックス・エンジンを与えてやった。おれはブラック・ウォリア川の近くに住み、でかいものに敬意をいだいている男だ(p.83)

 

Dr.レイ

 

年始に久々にブコウスキーを読んで最高に面白かったので、ブコウスキーのような作家の作品で面白いものはないか探していたときに見つけたものがバリー・ハナ。

 

ブコウスキーに近い作風の作家で調べていくと、暴力的な描写が出てくるものが結構あったりして(その手の作品は心の準備が必要)、バリー・ハナもそれに近そうだなと最初は思ったのだが、本作を読もうと思ったのはブローティガンの翻訳で有名な藤本和子が訳していたから。ブローティガンの繊細さを思うと、なぜ翻訳を・・・という疑問がまずあり、手に取ったという次第だった。でも読んでなんとなく納得できた。この表面に漂う粗野でアナーキーな感じの奥にブローティガンの寂しさを感じるのだ。

 

レイは医師だが、セックス、酒、薬物色々なものに頼りながら生きる男。とにかく粗暴、投げやり、向こう見ず。レイの元に来る患者もいかれているし、レイの処置も限りなく黒に近いグレーとくる(完全に黒の場合もある)。そんな彼の人生の瞬間瞬間が写真のように切り取られて並んでいる。

 

レイはベトナム戦争に参加していて、その時の記憶がたびたび蘇る。短い動画のように。戦争が人に与える傷というのは本当に多様だと思う。レイはベトナム戦争の記憶を通じて、時々自分が南北戦争にまで参加したという記憶を思い出したりする(もちろん南北戦争はベトナム戦争よりずっと前の話でありレイが参加しているはずがない)。ティム・オブライエン『本当の戦争の話をしよう』とは、全く違うベトナム戦争の残り方(でもオブライエンは戦争を捉えるその視座の個別性こそを「本当の戦争の話」といった)。

 

最近、人生があまりに重く感じられてきて(そんな話ばっかりしている気がする)、困ったときの傷薬文学や傷薬映画を引っ張り出してきて人間再生を図っている。いつか、傷薬文学、傷薬映画の感想もまとめて書きたい。

『終わりの感覚』ジュリアン・バーンズ

「歴史とは勝者の嘘の塊」と私がしたり顔で言ったとき、ジョー・ハント老先生は何と返したか—「敗者の自己欺瞞の塊でもあることを忘れんようにな」と言った。自分の私生活を語るとき、私たちはそのことを十分に心得ているだろうか。(pp. 149‐150)

 

 

長く付き合っている友人が過去にあった自分との間のちょっとしたトラブルについて謝罪している時に、「私があなたに怒ったポイントはそこじゃない!」と思うことがある。

 

しかし、これはまだ良い。最悪なのは、自分が相手に対してしてしまったことをあれこれ悔やんだ末に謝罪をした時に、「ポイントはそこじゃない!」と自分が相手から言われること。そんな時には、驚くべきことに、相手から指摘されたことをあまり思い出せなくて「そんなことしたかな」と思ったりする。しかし、いかにも自分がやりそうなことがしっかりディティール付きで説明されたりすると、ぞっとして、平謝りするしかなくなる。

 

この作品は、人生を振り返る年齢になった男が、自明としていた過去が実は自分が捏造した記憶だと気付いて唖然とする話。テーマとなる作中のセリフ「歴史とは、不完全な記憶が文書の不備と出会うことで生まれる確信(p.22)」という言葉には、自分に都合の良いように捏造されて脳内に保存されている記憶が、断片的でそれ自体に不備がある文書により補強され、疑う余地のないレベルにまで高まってしまう仕組みが表現されている。さらに、本作は「記憶の捏造」という私の感慨を刺激したテーマのさらにその先に2展開くらいびっくりするようなことが起こるので、一気読み必至。

 

ただ「記憶の捏造」が困ったものだと思う一方で、人は何かを得て、何かを捨てながら生きなければいけないという事情もある。馬鹿げた行為であっても、その時は何かを守るためにしたことであるのが通常である。そういう不完全な行動しかとれない宿命にある我々にとっては、記憶が全て客観的で、機械のように正確に思い出せるものであれば、人生は耐えがたいと思う。記憶というのは、捏造されたり、薄れたりすることで、なんとか我々自身を守っていることがある。そうであれば、過去を忘れたり、書き換えたりすることをある程度許容していきたい気もする(ただ、この作品くらいとんでもないことに繋がってしまっていたら簡単にそう言えなくもなってしまうが)。

 

時々自分に自信がないことを格好悪く思うことがあるが、こんなことが起こると知っていたら自信満々に生きることなんてできやしない。やはり、あまりふんぞり返って生きないようにしたいと思わされる作品だった。

『冬の犬』アリステア・マクラウド

「誰でもみんな、去ってゆくものなんだ」と父が静かに言う。私は父がサンタクロースのことを話しているのだと思っている。「でも嘆くことはない。よいことを残してゆくんだからな」(p.15)

 

 

私は雪の降る北国に住んでおり、さらに過疎地に住んでいたこともある。だから、ケープ・ブレトン島で起こる種々の出来事には、どことなく既視感があった。閉鎖的なコミュニティや厳しい寒さが人間関係やひとりひとりの人格に与える影響には共通性があるんだと思った。

 

この本は何年か前から読みたい本リストにあったのだが、話として地味に見えて、退屈だったらどうしようと思ってなんとなく後回しになっていた。しかし、季節に合った読書でもしてみようと思い立って読んでみたところ、想定外に面白くてあっという間に読み終わってしまった。

 

全ての作品が素晴らしかったのだが、一番心に残った「島」について。

 

灯台守を稼業とするたったひとつの家族だけが住む島で生まれた女が、最後に島を去るまでの物語。愛する人ができ、その人を失い、家族も失い、ひとり孤独に島で生きる。物語を読む私の頬に実際に激風が当たり、海の匂いがして、寒さが肌に刺さる、そんな描写が続く。心の中には消えていった人たちがぎっしり詰まっている。幻想的な終わりがまた切ない。

 

最近、AIが凄まじい勢いで世の中に浸透してきていて、職場でその話になった時に60代目前の同僚が「もうついていけない・・・」と悲しい顔をしていた。その時、自分にもいつかそういう顔をする番が回ってくるのだろうかと感じた。この作品に出てくる主人公も同じように自分達が先祖代々守ってきた仕事をテクノロジーに代替され、去っていく。

 

運よく生き延びられたら、たくさんの喪失がこれから先自分を待っている。そういう時に自分の支えとなりそうな物語たちだった。

『死をポケットに入れて』チャールズ・ブコウスキー

ゆっくりものを考える時間など全くない日々に気が狂いそうになってきて、久しぶりに本でも読んでやろうと思って買ったブコウスキーの晩年の日記。本当に面白かった。

 

 

私は他人に認められると嬉しいし、お金が沢山稼げたら良いと思っているし、長生きしたいし、酒にもギャンブルにも全然興味がない。でもブコウスキーは、人間を嫌って、世間的な成功を蔑み、大酒飲で自己破壊的に生きている。訳者の解説にブコウスキーの思想は『徹底した自力本願の思想(p.228)』と書いてあった。でも私は他人に助けられてようやく生きられる人間で、他人に嫌われたくない。とにかくこんなに違うのに私はブコウスキーが結構好きで、折に触れて読んでいる。

 

この人間どもみんな。彼らはいったい何をしているのか?彼らはいったい何を考えているのか?我々はみんな死ぬのだ、誰だろうと一人残らず。何たるばか騒ぎよ!そのことだけでわたしたちはお互いを愛し合うようになっても当然なのに、そうはならない。わたしたちはつまらないことに脅かされたり、意気消沈させられたりし、どうでもいいようなことに簡単にやっつけられてしまう。(p.16)

 

私は正義を求めてもいなければ、筋を通そうともしていなかった。そうしたことはこれまで一度もない。たぶんだからこそわたしは社会的な抗議をする作品をひとつとして書かなかったのだ。わたしにとっては、そもそも社会構造全体が、やつらがそれに基づいて何をやったとしても、まったく意味をなすことがなかった。(p.71)

 

ただ、こんなにも自分と違うブコウスキーにひとつだけ共感するのが、彼が競馬場に通う理由。

 

競馬場に行かずに家にずっといようとしてみたこともある。するとわたしはいらいらしてきて、それから意気消沈してしまい、夜になってコンピューターに向かってみても、そこに注ぎ込めるようなものが何ひとつとして湧き起こってこない。重い腰を上げてここから出かけていけば、わたしの目は否応なしに人間社会に向き合うことになり、人間社会を目の当たりにすれば、反応を示さずにはいられなくなるということなのだろう。それはあまりにもおぞましい、延々と続くホラー・ショウだ。わたしは競馬場に行ってうんざりさせられ、恐怖を感じさせられもする。しかしわたしは同時に、ある意味では生徒でもあるのだ。地獄の生徒。(p.104)

 

私の普段の仕事は、人間の弱さや汚い部分を沢山見る種類のものだが、そういう役目を何年もこなしているうちに、以前は理解できなかった文学作品の意味が少しずつ分かるようになってきた。仕事をしていると心底うんざりすることも沢山あるが、実際に仕事からしばらく離れた時には、働いている時より精神状態が悪くなり、早く仕事をさせてくれと思った。自分の仕事はブコウスキーにとっての競馬場みたいなものだと思う。そして、ブコウスキーにとって書くことが救いであり、私にとっては読むことがいつも救いになっている。

『ある一生』ローベルト・ゼーターラー

 

自分の人生は起伏に富んでいて、わかりやすく賑やかな方なので、それとは逆に淡々と進む人生に憧れている節がある。静かに物事を受け止める人に敬意を抱くし、そういう人の影響を受けて人生軌道修正したいと常々思っている。

だから、そういう人生が描かれていそうな本を時々手に取ってしまう(例えば、ジョン・ウィリアムズストーナー』、バーバラ・ピム『よくできた女』など)。

今回もそんな自分の傾向から選んだ一冊だったが、読後感の静かさがとてもよかった。

 

ストーリーはとてもシンプルで、アンドレアス・エッガーという男の幼少期からその死までのお話。物語は1900年代初頭から始まり、シベリア抑留の経験も語られる。きっと当時の人々にとっては耳目を引くようなことは何も起きない、平凡な人生。

 

人生に不可避に生じてくる別れや喪失の苦しみを、何も語らず粛々と日々をこなすことで乗り越えていく姿に胸を打たれた。

 

マリーのうなじには、二十センチほどの長さの赤く輝く三日月型の傷跡があった。エッガーは気にしなかった。傷跡は年月みたいなものだ、と言った。ひとつ、またひとつとやってきて、すべてが積み重なって初めて、ひとりの人間を造り出すものだと。(pp.31-32)

 

「人の時間は買える。人の日々を盗むこともできるし、一生を奪うことだってできる。でもな、それぞれの瞬間だけはひとつたりとも奪うことはできない。…」(p.45)

 

彼らにとってエッガーは穴倉に住み、独り言を言い、朝には氷のように冷たい小川にしゃがんで体を洗う老人に過ぎない。だが、エッガー自身はなんとかここまで無事に生きてきたと感じており、それゆえ、満ち足りた気持ちになる理由はいくらでもあった。ガイド時代に稼いだ金で、まだ当分は不自由なく暮らせるはずだし、頭の上には屋根があり、自分のベッドで眠ることができる。それに、小さな腰かけを扉の前に置いて座れば、いつまででも景色を眺めていられる。…すべての人間と同じように、エッガーもまた、さまざまな希望や夢を胸に抱いて生きてきた。そのうちのいくらかは自分の手でかなえ、いくらかは天に与えられた。手が届かないままのものも多かったし、手が届いたと思った瞬間、再び奪われたものもあった。だが、エッガーはいまだに生きていた。そして、雪解けが始まるころ、小屋の前の朝露に濡れた野原を歩き、あちこちに点在する平らな岩の上に寝転んで、背中に石の冷たさを、顔にはその年最初の暖かな陽光を感じるとき、エッガーは、自分の人生はだいたいにおいて決して悪くなかったと感じるのだった(p.134)

 

実はこれも1年前くらいに書いた記事。最近、本当に可処分時間が減ってしまって、義務を果たせば1日が終わってしまう状態だが、この前インフルエンザになって何もできなくなり、雲を眺めていたら涙が出てきた。人に褒められる生産的なことばかりしていたら、最後に自分には何も残らなくなってしまうと思った。久しぶりに読みたい本リストを整理して、この状況でも読めそうなものを買った。買った本がブコウスキーだったことに後から気付いて自分でも笑った。落差がすごい。

『テレーズ・デスケルウ』フランソワ・モーリアック

全然更新していなかったので、2年前くらいに書いたものを掲載。

 

最近、同居人が毛嫌いしていた遠藤周作を読み始め、とても気に入った様子なのを見て、積読に入っていた遠藤周作訳の本でも読もうかなと思い、なんとなく読み始めたら、面白くて一気に読んだ。

 

世の中には、自分の感情や価値観などを他人と共有したい、そしてその過程で自己を呈示することで相手の心に揺さぶりをかけ、ある種の変化のようなものを相手に促すことでもって、自他の繋がりを感じたいと願う人間がいる。本作の主人公、テレーズは、まさにそのような人間だった。

一方、世の中には、自分について掘り下げることにあまり興味がなく、同様に他人の心にも深い関心を持たず、他者との表面的な交流と、世間体を保つことや財産を増やすことによって結構満足して生きていける人間もいる。それが、テレーズの夫のベルナールだった。

とにかく、そういう2人が夫婦として結婚生活を送ることは、テレーズからすれば地獄以外の何物でもなかった。

 

才気に溢れる女が、つまらない男と結婚して家族という牢獄に閉じ込められるという流れは、『ボヴァリー夫人』に通じるものがあるが、エマ・ボヴァリーが新鮮な恋を求めて不倫に走ったのとは異なり、テレーズはなんと夫を殺害することでこの閉塞感から逃れようとする。

殺人とはいっても、そこに向かうテレーズの感情の温度は事の重大さに比べてあまりにも低い。そして同じくらい低い温度で、テレーズは、男では自分の空虚な心を埋めることはできないと理解していた。

この世界のどこかに自分を理解してくれ、ひょっとすると自分を讃美して愛してくれる人がいて、そのなかで自分を育てていくことができるーそんなことを信じていたときもあったのだ。だが、癩病にただれた腫れものがつきものである以上に、この孤独は自分に結びついている。「だれもわたしのために何一つできないし、だれもわたしを傷つけることもできない」(pp.116-117)


テレーズがベルナールと結婚してから、パリで暮らす若者ジャン・アゼヴェドと出会い、より広い世界への可能性を感じるシーンが悲しい。若い彼女が自分の才能を知りながら、それを開花させる機会を与えられることなく、暗い田舎に、家族という檻に永遠に閉じ込められることは精神的な死を意味した。

このような若い青年の貪欲さ、このような知性に今まで接したことがなかったので、わたしは相手をさえぎることなく聞いていた。確かにわたしは聞きほれていた。まったくやすっぽい感激であるが、わたしは眩惑されていたのだ。…ジャンはしゃべりわたしはだまっていた。それはわたしの唇には家でみんなが議論するときのきまり文句しか出てこなかったからだ。ここではすべての車は道幅にあわせてある。つまり馬車のわだちに車輪がきっちり合うようにつくられているのだが、それと同じようにあの日までわたしの考えといったら父や舅姑との道幅にあわせてきたのだった…彼はわたしが出会った最初の男であり、そして何よりも精神の生活を重くみている人間だった(pp.84-86)

 

彼は、今度おめにかかるときはあなたも自由な身になっておられるでしょうといった…そして彼と離れるや否やわたしは果てしないトンネルの中にだんだん深く身を入れて闇に身を没しているような気がした。そして自分が窒息してしまう前に自由な空気をみつけられるだろうか自問することがあった(p.93)

ヘルマン・ヘッセデミアン』の主人公シンクレールにとってのデミアンのように、「自分の頭でものを考えたい」と切実に望んでいる人間が、自分をそちら側に連れて行ってくれそうな人間に出会った時の感動は、自分にも身に覚えがある。その瞬間、シンクレールも私も学徒として様々な義務から自由だった。だから自分が軸足を置く世界を大幅に変更することは、(『デミアン』に倣えば、過去に対する「忘恩」の勇気さえあれば)そこまで困難なことではなかった。でも、テレーズのように結婚や出産によって、自分の人生が既に深く他の社会的関係に義務を伴いながら、密接に絡まり合ってしまった後であれば、帰属する世界の変更は相当血の流れる作業を要するだろう。

 

そして、テレーズの精神の在り方について全く興味を示してこなかったベルナールが、最後にパリでなぜ自分を殺そうとしたのかを聞く場面が印象的である。それはテレーズがベルナールにずっと望んできたことだった。

テレーズは、そこで「あなたの目の中に不安と好奇心の色をみたかった(p.168)」と答える。

不安と好奇心の色、ベルナールの目にそれが浮かぶのであれば、テレーズはベルナールの心にアクセスし、そこから関係を始めることができた。しかしベルナールは、テレーズとの対話に耐えられず、問いを引っ込め、元いた世界に戻ってしまう。

 

自分というものに唯一無限の関心を持って、オリジナルな認識を構築することに腐心し、そういう自分をもってして他者と関わることを悦びとする、その障害になるものは夫であっても我が子であっても、関心や愛を持てないし、殺人にまで手を染めてしまう、そういうテレーズは巷では「怖い女」といわれている。もちろん殺人はあまりにも極端だとしても、そういった心の在り方は、特に不自然なことには思えなかった。