ポテトとサルバドーラ

海外文学の読書感想文

<番外編>『ヒロシマ・ノート』大江健三郎

2023年が終わった。去年は本当に信じられないことが色々とあり、多忙な1年だった。あまり本も読めず、感想を書くまとまった時間も取れずにいたが、1冊だけ簡単に記録しておきたい。

 

本書は大江健三郎による広島と原子爆弾を巡るノンフィクションである。原爆投下後の惨状の中で広島の医師たちは、医師としてどのように振舞ったのか。その記録が非常に印象的で、示唆深かった。

 

原爆投下直後の広島の医師たちは、自分自身も怪我をした状態で患者のいる場所に向かった。しかし、彼等が医師として被爆した人々を救うことは、ほとんどの場合かなわなかった。物資があまりにも不足していたし、医師自身も被爆し、満身創痍で治療に当たっていた。治療に励みながら、被爆数日後に自らも命を落とした医師もあった。

 

そのような鉄の使命感を持っていた医師たちがどんな様子だったか。それを表現する言葉が「鈍い眼」であることが私の関心を引いた。

 

限界状況の全体の展望について明晰すぎる眼をもつ者は、おそらく絶望してしまうほかないだろう。限界状況を、日常生活の一側面としてしか、うけつけない鈍い眼の持ち主だけが、それと闘うことができるのである。鈍い眼という言葉は補足しなければならない。あえて鈍い眼によってしか限界状況を見まいとする態度こそが、これらの状況において絶望せず、人間的な蛮勇を可能ならしめるものなのだから。しかもこの眼の鈍さは、忍耐力によって支えられている鈍さであり、その背後に灼けるように激しい明察をひそめているものでもあるのだ。(pp.128-129)

 

しかし、目の前の焦土に青草が生えればそれを信じる。そして新しく異常があらわれるまで絶望的な想像力を停止する。それより他に、限界状況に屈服しないで日常生活の平衡をたもつ生き方はない。広島で真に人間的に生きるやり方はない。数十年も緑の草が生い茂る希望がない土地で、人間が、こまごました小さな努力をつみあげてゆく気力をもつことができるだろうか、しばらくは草の未来について楽観主義者となるより他に(pp.129-130)

 

アルベール・カミュ『ペスト』で市井の人々がペストと戦った精神的態度は、これと重なる。

 

もうそろそろ若者とは呼ばれなくなる年齢にさしかかる自分が、果たさなければならない社会的な使命を全うしていくために不足している何かを、広島の医師達に見た思いだった。