ポテトとサルバドーラ

海外文学の読書感想文

『夜になるまえに』レイナルド・アレナス

ぼくは一度として自分を左翼とも右翼とも見なしたことがないし、日和見主義とか政治的にはこれこれといったようなラヴェルを貼られて分類されたくもない。ぼくはぼくの真実を言う。ちょうど人種差別に苦しんだユダヤ人、あるいは、ソ連の強制労働収容所にいたロシア人、あるいは物事をありのままに見るための目を持っている人なら誰もがするように(p.388)

 

 

レイナルド・アレナスの自叙伝『夜になるまえに』を読む。訳あって入院していたのだが、痛い身体をなんとかしてでも読みたくなるような素晴らしい本だった。

 

著名なラテンアメリカ文学の作家の中で、アレナスほど貧困と差別と弾圧の辛酸を舐めた人物はいないのではないかと思う。多くの他の作家たちが裕福で教養のある家庭に生まれ、大学教育を修了している一方で、アレナスはキューバの寒村に生まれ、およそ文学や芸術とは程遠い極貧の幼年時代を過ごしている。成人してからも、カストロ政権下で同性愛者として、作家として弾圧を受け、食べる物にも事欠く生活を送り、アメリカに亡命した後も資本主義に裏切られ、結局豊かな暮らしはできなかった。そこから、独自の世界観や文体を打ち立て、こんなに心を揺さぶる作品を残したのだと思うと、胸が熱くなる。

 

私の大好きな『夜明け前のセレスティーノ』は一見滅茶苦茶に思える作品だが、その荒唐無稽さに重みを与えている作品全体に通底する悲しみの背景が見える気がした。

 

アレナスは囚人同士が殺し合う人間性が徹底的に剥奪された獄中生活を強いられた後でも、貧窮に陥ることになっても、絶対に書くことを止めなかったし、性的な悦びを享受することを止めなかった。アレナスは、自分の命を危険に晒しても、自分の感性に率直であることを選んで生きたように思える。

 

カストロ政権下で作家が生き残る途は、カストロの側に立って体制を礼賛する作品を書くか、拷問の末転向をさせられて作家としての魂を抜かれるか、亡命して故郷と切り離されて生きるか、自殺するかという過酷なものだったが、アレナスは肉体がエイズに侵され、もはや書くことに堪えられなくなり自殺するまで、とにかく様々な工夫や幸運によって生き延び、そして書き続けた。

 

ラサロは書きたがったが書けなかった。二、三行で紙を放り投げ、力なく泣いた。一ページも書けなくたっておまえは作家だよ、とぼくが言うと、ラサロは元気を出した。ぼくに書き方を教えてもらいたがっていた。でも、書くことは職業ではなく呪いみたいなものなのだ。いちばん怖いことは、ラサロがその呪いに憑かれているのに精神状態が書かせなくしていることだった。白い紙の前に坐り、書けない無力感から泣いているのを見たあの日ほどラサロが愛しかったときはない(pp.334-335)

 

性的悦びというのはたいていひどく高くつくものだ。ぼくたちが味わう悦びの一分一分に対して、遅かれ早かれ、その後、何年も苦しむことになるのだ。それは神の復讐ではなく、美しいものすべての敵である悪魔の復讐なのだ。美しいものというのはいつも危険なものである。光を運ぶ者はひとりぼっちになる、とマルティは言った。ぼくなら、美を実践する者は遅かれ早かれ破滅する、と言うだろう。大いなる人類は美に耐えられない。たぶん美なくしては生きられないからだ(p.264)

 

『夜になるまえに』も、アレナスの他の作品も、どん底の過酷な状況を描いているのになぜか笑える場面があり、そこには実在しないはずの世界を逃避所として現前させる力がある。アレナスの自由奔放な想像力や、ユーモアへの信頼がそれを可能にしている。

 

祖母が死んだとき、ぼくにとっては一つの宇宙が死んだ。なんでもない話の最中に、話をやめて神を呼びだしはじめる、そんな人間と話をする可能性が祖母とともにすっかり消えていった。一つの知恵が、人生に対するまったく違った知見が消えていった。祖母の顔とともに魔女や幽霊、妖精たちからなる一つの過去全体が消え、ぼくの人生の中で最良のものであった幼年期全体が消えていった。その顔を見ながらぼくは泣きたかった。でも、泣けなかった(p.305)

 

暴政の何がいちばん嘆かわしいかと言えば、その一つはすべてを真面目にとり、ユーモア感覚を消し去ることだろう。歴史的にキューバは風刺や嘲笑のおかげで現実からいつも逃げてこられた。しかし、フィデル・カストロとともにユーモア感覚が消えていき、やがて禁じられてしまった。そのためキューバ人はわずかしかない生きのびる手段の一つを失くすことになった。笑いを奪ったとき、物事に対する最も深い判断力を国民から奪ったのだ。そう、独裁は取り澄ましたものであり、もったいぶったもの、そして、完全に退屈なものなのだ(p.315)

 

本作の中で、カストロと近しかったマルケスをアレナスは激しく糾弾し、マルケスよりも素晴らしい作家の作品がカストロによって多く闇に葬り去られたと言っている。あのマルケスよりも素晴らしい作品を残せた作家!そういう作家の作品が独裁政権によって永遠に消されたのだと思うと、とても悲しくなる。