ポテトとサルバドーラ

海外文学の読書感想文

『蜘蛛女のキス』マヌエル・プイグ、『モレルの発明』アドルフォ・ビオイ=カサーレス、『精霊たちの家』イサベル・アジェンデ

最近全然更新をしていなかったので、割と最近読んだ本の感想を3冊まとめて書こうと思う。意図した訳ではなかったが、気が付いたらラテンアメリカ文学ばかり読んでいた。

 

『蜘蛛女のキス』マヌエル・プイグ

 

ある事象についてリベラルな考えを持っている人は、他の事象についても同じようにリベラルである、と無意識的に考えてしまうことがある。

しかし、例えば、自分自身も含めた社会運動(とりあえずここでは個としての自由や権利の拡張を目指す政治的活動をざっくり指す)に関心を持つ人々の心の中にも、内面化された保守性が維持されている領域があることに時々はっとする。

 

リベラルであることを是とする価値観を共有していると、そういう自分の中の保守性を発見し、じっくり検討するということがなかなか難しいと感じる場面が多い。

 

『蜘蛛女のキス』は、ブエノスアイレスの刑務所で同室となった革命家の青年バレンティンと、性表現が女性であるゲイのモリーナが自分の過去、価値観、好きな映画のストーリー等について延々と繰り広げる会話で構成されているのだが、これがすごく面白かった。

 

バレンティンは、ゲリラ仲間の「強い女」よりも、いわゆる普通にモテるタイプのジェンダーロールにばっちりハマった女が好きで忘れられない。政治的にはリベラルを目指していても、自分が性的な魅力を感じる対象という点では、その唾棄すべき保守性を乗り越えることができない(現実にもそういうことはよくあることだ)。

 

そして、セクシャルマイノリティであるモリーナは、自分にとって自然に装ったり振る舞ったり愛したりするだけで文化的規範に逆らうという意味でリベラルな人間であるが、主観的には政治には関心がないし、「男に支配されることに喜びを感じる」という保守的な男女観に拘束されている。

 

この2人が、暇を持て余す獄中生活において心を通い合わせることで、それぞれが拘束されている保守性に揺さぶりを掛け合う。そして、それを乗り越えられそうなところまで行く。しかし、内面化された規範の強固さはそんなにやわなものではないことは、読んで知るべし。

 

内面化された保守的な規範はそもそも変更を加えるべき対象なのか。無理に価値観の変容を求めると結局何かを強制されるという状況は変わらず、個としての自由は損なわれるのではないか。しかし、その内面化された規範が罪のない誰かを苦しめるものであれば、自分の中にあるそれをそのままにして生きていくことで価値の再生産することが果たして誠実と言えるのか。話題は尽きず答えは出ない。

 

 

『モレルの発明』アドルフォ・ビオイ=カサーレス

初めて読んだ時、その息が詰まるような絶望的な美しさに魅せられて棺本候補(死んだ時に棺に入れてもらいたい本)に上がった本を再読。

 

水声社の本は過疎地に住む身分では若干買いにくく、初回は図書館で借りて読んだのだが、この前東京に行った時に友人が連れて行ってくれた下北沢の独立系書店に置いてあり脊髄反射で購入。他にも文体を確認してから購入したいと考えていた本がずらりずらりと並んでおり、こんな場所にすぐに行ける人たちがいるのだと思うと心底羨ましかった。

 

久しぶりに『モレルの発明』を読んで、相変わらず無人島の自然の眩しさと、極限的な孤独のコントラストの美しさに胸が苦しくなった。

 

主人公は何らかの重罪によって終身刑を宣告され、国から逃げて、怪しい船乗りを頼ってこの無人島に上陸した。そこで獣のようなサバイバル生活を送るのだが、廃墟と化した丘の上の博物館に観光客の集団がいることに気がつく。初めは彼らに絶対に見つからないように生活することに苦心するのだが、主人公はその中の1人の女性フォスティーヌに恋をしてしまう。思いを抑えきれなくなり、勇気を出してフォスティーヌに話しかけるのだが、フォスティーヌには自分が見えていないことが分かる。そこから、この島で起きている奇妙な現象の全貌が少しずつ明らかになる。

 

(ネタバレを避けるために細かいことは省略するが)自分が他人からこう思ってもらいたいという自分の虚像を作り上げ、それを提示したり、演じたりすることで、承認を集める行為は昔も今もずっと行われてきたことだ。

 

しかしそれは、そうして集めた承認を認知する主体(=自分の意識)が存在して初めて意味を成すものだと私は思っていた。それに対して、本作の主人公は、認知する主体としての自己の意識と引き換えにしてでも(つまり自分が死んだとしても)、幸福に見える外面を永久に保存することを望む。

 

私はこれを狂っていると思ったのだが、この話をある知人にしたところ、彼はあり得なかった幸福が描かれた絵画や、異世界転生系ストーリーの類を例に出し、「パラレルワールドに生きる自分を永遠に幸福にすることで、こちら側にいる死んだも同然の惨めな生を送る自分をも救済したいという心理はむしろ普通」というようなことを言っていて、なるほどと思った。

 

 

『精霊たちの家』イサベル・アジェンデ

南北アメリカ文学に詳しい友人に勧められて読もう読もうと思っていたが、長期の休みに入ったのでようやく読んだ一冊。

 

マルケスの『百年の孤独』と重なる設定が色々と出てくるのだが、単なるコピーでは全くなく、衝撃的な面白さのエピソードの連発で、それなりに長い作品なのに倦む時間が無かった。

 

前半は亡霊、予言、テレパシー等々のラテンアメリカ文学お家芸が炸裂する。ここで描かれるエピソードがとにかく全部面白い。

 

私が特に好きなエピソードは、神憑りのクラーラが、小作人を相手に女性の権利について教授していたところ、クラーラの夫が「男の威厳を蔑ろにするのは許さん」と怒鳴り散らし、ひとしきり荒れ狂って一息ついた瞬間に、「あなたって、耳を動かすことができるの?」と聞いて夫を絶望させる話。南米のマチスモ(男性優位主義)と、マジックリアリズムの対峙を見る思いで笑った。

 

後半は国の動乱に一族が翻弄される。チリの独裁政権を扱う作品は、ロベルト・ボラーニョの『チリ夜想曲』くらいしか読んだことがなく、あまりよく知らなかったのだが、軍部によるクーデターの進行、暴力の横行、民衆の生活の変容、その中で人々が何をよすがに生きたのかがリアルに伝わってきた。

 

海外文学に興味を持った人が、あまりにも有名であるという理由で『百年の孤独』から読み始めると、二度とガイブンに手を出さなくなると聞いたことがあるが、『百年の孤独』よりは『精霊たちの家』の方が読みやすく、楽しみやすいかも知れない。

 

そういえば、4月に出た村上春樹の新刊『街と、その不確かな壁』に、『コレラの時代の愛』からの引用が沢山されていて嬉しくなった。久々にマルケスでも読もうかなと思った。