ポテトとサルバドーラ

海外文学の読書感想文

『青い野を歩く』クレア・キーガン

また素晴らしい本に出会ってしまった。

なんという繊細さ、なんという深み。

 

アイルランドを舞台にした短編集。全ての作品に儚い情景の美しさと、どうしようもない現実を引き受けて生きる人間の強さを感じる。特に印象深い作品について書きたい。

 

■「青い野を歩く」

もし、まばたきをしたら、神父は彼女の手を取って、ここから連れ去っただろう。…それは彼女がかつて望んだことだったが、人生のある時点で、ふたりの人間が同じことを望むことはまずない。人として生きるなかで、ときにそれはなによりつらい(p.42)

 

本作は、ある神父が、自分がかつて愛した女性の結婚式を執り行うシーンから始まる。神父は彼女ではなく、信仰の道を選んだ。それを後悔してはいないが、彼の胸の中に様々な思いが吹きすさぶ。

 

だれかに触れられたのは三年ぶりで、他人の手のやさしさに彼ははっとする。どうして、やさしさのほうが怪我より人を無力にするのだろう?(p.47)

 

恋愛という劇物に翻弄された後で、人はどうやって日常を取り戻して生きていけるのか。

本作の神父は、ある中国人のマッサージ師に出会い、自分の中の固い何かから自由になる経験をする。恋愛の最中は、相手との関係性にばかり心を奪われて、自分自身のことが蔑ろになる。そんなときに、身体性に目を向けることは、日常に戻るために契機となる。そして、恋愛の激情に吹っ飛ばされた日々の何気ない生活や仕事が、本人を再び支え始める。

 

■「森番の娘」

金と体裁にしか興味がない男と、「結婚」がしたかった女の夫婦生活の話。フォークナーの『アブサロム!アブサロム!』を彷彿とさせるモチーフが散らばり、いつか何かが起こるぞという不穏な空気が漂う。

 

とにかく夫婦には会話がない。いや、会話はある。心を通じ合わせるために、本当に必要な会話だけがない。

 

言葉が話せなくてよかったとジャッジは思う。どうして人間は会話せずにはいられないのか、彼には理解できない。人間は、話をするとき、自分たちの暮らしをよくするとはとても思えないむだなことをいう。言葉は人間を悲しませる。どうして話すのをやめて抱き合わないのだろう(p.105)

 

このごろでは、夢を見ることがだれかに話すかわりになっている。彼はマーサを見る。妻は熟睡しており、青白い乳房が寝間着の薄い木綿地に押しつけられている。今、妻を起こして夢の話をしたい。ときどき、妻をこの土地から運び出して、心に思っていることを話し、最初からすっかりやりなおしたいと思う(p.108)

 

最後には二人の不幸な結婚生活の唯一の代償だった「形」までもが失われてしまう。結婚という重い枷から彼等が自由になる訳ではないが、廃墟から再び一緒に歩き出す姿には希望を感じた。

 

この二つの作品の他にも、「別れの贈りもの」、「クイックン・ツリーの木」など素晴らしい作品が収められている。静かな場所で、一人で読みたい。