ポテトとサルバドーラ

海外文学の読書感想文

『夜明け前のセレスティーノ』レイナルド・アレナス

満を持して『夜明け前のセレスティーノ』を読む。主人公と秘密の友達になって小さな部屋に二人だけでいるような時間だった。自然な身体のリズムに伴走してくるこの感じ、まったく素晴らしい作品だった。

 

夜明け前のセレスティーノ (文学の冒険シリーズ)

夜明け前のセレスティーノ (文学の冒険シリーズ)

 

 

物語の舞台はキューバの農村。驚愕の野蛮さを持った祖父母と母親と共に、蒸し暑い大自然の中で妄想と混然一体になった世界に生きる主人公の日常が延々と語られる。プロットなんてものは、ほとんど存在しない。

 

この祖父母の孫に対する蛮行が笑っちゃうほどすごい。「アチャス(斧)」はこの本で連発されるキーワードのひとつであるが、そんな危険なものを振りかざしてじいさんが孫を追いかけ回す。かたやばあさんは、孫に熱湯をかぶせかけたり、鶏を見失おうもんなら「お前が死ねばよかったんだ!」と言い放つ。祖父母にとっての孫のステレオタイプなイメージとして、「目に入れても痛くない」可愛い存在、というものがあるが、『夜明け前のセレスティーノ』の世界では、孫とじいさんばあさんの関係は「食うか食われるか」である。文字通り、じいさんを家族みんなで食う場面すらある(その後もなぜかじいさんは普通に生きているんだけど)。母さんは井戸に飛び込んで死んだ(のか死んでないのかよくわからないんだけど)。

 

「ぼくの十字架になにするんだ、ろくでなし!」とぼくは言うと、火のついた十字架の木っ端をつかんで持ちあげ、目玉をえぐりだそうとした。でもこのばばあとはだれも勝負にならない。ぼくが火のついた棒をとると、ばあちゃんはかまどで煮えたぎっている湯の鍋をつかんで、ぼくにかぶせかけた。のかなかったら、いまごろ赤むけになっていた。「なめるんじゃないよ」とばあちゃんは言い、そのあと、焼いたサツマイモをくれた。ぼくは半分食べかけのサツマイモを手にエビスグサの茂みに行き、穴を掘って埋めた。それから乾いたエビスグサの茎で十字架を作り、死んだサツマイモのそばにそれを埋めた。(p.12)

 

主人公はこんな混沌とした世界の中で、セレスティーノという木の幹に詩を書き続ける男の子の分身を作り出し、彼と友達になる。この物語は、言ってしまえばひどい児童虐待の話なのだが、暴力にさらされる子どもの強かで多彩な抵抗に圧倒的な生命力を感じる。木に自作の詩を書きつけるセレスティーノを作りだすことは、この無慈悲な状況の中で自分の心を自分で守っていくための方策だった。

 

訳語の感覚は、子どもらしい屈託のなさをとてもよく表現していて、本当に小さな男の子が喋っているようだ。

 

読み始めればたちまちアナザーワールドに飛んでいける。こんなに意味が分からないのに、最後までむさぼるように読ませる本はそうそうない。

 

ちなみに、作者のレイナルド・アレナスは、カストロ政権下のキューバで、政治的にも同性愛者としても弾圧され何度も逮捕されながら、アメリカに亡命した。亡命後、自分がエイズであることを知って、自殺してしまった。

 

先日読んだ、スターリン政権下のハルムスの作品もそうだが、笑いながら読める作品にこういった影がついているのは、なんとも不思議なことである。深刻な境遇にあっても、人生に滑稽なことは起こるし、そういうことを真面目くさって語ることは、笑えない状況においてもなお笑いを誘う。そんな屈強なユーモアに人間のしぶとさをしみじみ感じる。