ポテトとサルバドーラ

海外文学の読書感想文

『サンアントニオの青い月』サンドラ・シスネロス

パドヴァの聖アントニウスさま。どうか、セックスするとき痛くない人が見つかりますように。(…)料理をしたり掃除をしたりしているのを人に見られても恥ずかしいと思わない、じぶんの面倒はじぶんで見られる人がいいです。(…)あなたがちゃんとした男の人を送ってくれるまで、あなたの聖像をさかさまにしておきます。あんまり長いあいだじっとがまんしてきたので、いまではじぶんがインテリで、パワフルで、美しすぎて、どういう人間かはっきりわかっていて、いいかげんなものじゃだめってことが、じぶんでもわかりすぎていますから。(p.199)

 

 

サンドラ・シスネロスは「フェミニスト作家」であると言われているが、この人の作品には革命や運動に伴うきな臭さがない。そこに描かれるのは、イズム以前に溢れ出す生命力、感情豊かな女たちの「何がなんでも生きて、幸せになってやる」というエネルギーである。

 

もちろん彼女たちの日常には、DVや貧困の問題(フェミニズムの中心的テーマ)が横たわり、そこにメキシコ移民に対する人種差別なども加わってくる。そういった差別の問題を背景に据えつつも、シスネロスの関心は、抑圧の中で女がどうやってしぶとく生きていくのかにある。被害者としてだけではなく、あくまで自分の人生をコントロールする主体としての女。そういう姿勢に、彼女たちの生への尊重と信頼を感じる。

 

本作は、メキシコとアメリカを舞台に、様々な年齢や立場の女性たちが、それぞれの生活や愛や感情について語る短編集である。

 

英題の表題作「女が叫ぶクリーク」は、DV夫から逃げ出す女性が、女の自立の可能性に初めて触れる瞬間を切り取った物語。主人公のクレオフィラスの逃亡を手伝ってくれることになるフェリスは、彼女が初めて出会う自分のお金で買った車に乗る女であった。さらにフェリスは「ターザンみたいに叫びたくなるから」という理由で、川を渡るときに大声をあげてゲラゲラと笑い、クレオフィラスを驚かせる。しかし、最後にはクレオフィラスも一緒になって笑い始めるのだ。ここの詩情がすごく良い。

 

それと、冒頭に引用したような強気なお祈りが連なる「ちいさなお供え、立てた誓い」にも笑った。

 

聖母グアダルーペさま。(中略)あなたには胸もあらわで、手には蛇を持っていてほしかった。牡牛の背中で飛び跳ねたり、トンボ返りをうったりしてほしかった。生の心臓を飲み下して、ゴロゴロと火山灰を吐き出したりしてほしかった。わたしは母さんやおばあさんのようになるつもりはなかったから。みんな、じぶんを犠牲にして、黙々と苦しみに耐えている。そんなのは絶対にイヤです。ここではダメ。あたしはイヤです。(p.220)

 

わたしは母親にはなりたくないんです。父親になるならいいんだけど。せめて父親なら、そのままアーチストでいられて、だれかを愛するのではなく、なにかを愛することができて、それがわがままだなんてだれにもいわれません。(p.218

 

シスネロスは読んでいてとても楽しい。「気分の悪いことも起こるけど、今日もまあ頑張るか」と思わせてくれる。世の中を変える原動力は、怒りや正義感のように持ち続けるのがとてもしんどい気持ちだけではない。

 

前作の『マンゴー通り、ときどきさよなら』も、素晴らしいので合わせて読みたい。過酷な状況に泣きながらも、軽やかに、ユーモラスに、しぶとく生きる少女の姿がとても頼もしい。

 

いつか、本と紙をバッグにつめよう。いつか、マンゴー通りにさよならをいおう。わたしはあんまり強すぎるから、永久にここに留まらせておくことはできないよ。いつか、わたしは出ていくからね。(『マンゴー通り、ときどきさよなら』P.163)