ポテトとサルバドーラ

海外文学の読書感想文

『楽園への道』マリオ・バルガス=リョサ

普段、3冊くらいは同時に本を読むのだが、今回は『楽園への道』にだけひたすら夢中になった。面白くないページが無い、素晴らしい作品だった。 

楽園への道 (河出文庫)

楽園への道 (河出文庫)

 

本作は、画家のポール・ゴーギャンと、その祖母であり最初期のフェミニストのひとりであるフローラ・トリスタンの人生を交互に語るという形式で書かれている。

 

それぞれの人生にのしかかる抑圧からの自由を求めて体制に反旗を翻す二人の姿に胸が熱くなる。

 

19世紀の女性差別は目を覆いたくなるほど凄まじい。女が自由に生きるということは、それそのものが背徳行為であり、法律によって処罰される時代だ。フローラは、夫と子どもを捨て、自分自身の自由と社会変革のために身を捧げた。身を削りながら女性と労働者の連帯を求めてヨーロッパを行脚し、41歳の若さで死んだ。

 

フローラの物語には、彼女と同じように世間の誹りと戦いながら自由を選んだ女、ドミンガ・グティエレス修道院から脱走した女性)が登場する。彼女とフローラが出会う場面は、醜聞を引き受けてでも自分の人生に誠実であろうとしたことがある人々の心に沁み入るものがある。

 

確かにいけない行為だった。けれど自分の精神、考えがずっとずっと嫌悪していたあの幽閉生活から抜け出すために、他のどんな方法があったというのでしょうか。あきらめるのですか。自暴自棄になるのですか。それとも自殺するのですか。それが神の望んでいることなのでしょうか。ドミンガが一番悲しく思ったのは、あの背信行為以降、母親が娘は死んだものと思っていると言ってきたことだった。(…)ごたごたがすべて片づいたら、リマに出て、名もない一人の人間として自由に生きることを許してほしい、たとえ女中をして働いてもいい。別れに及んでフローラの耳元で彼女はささやいた。「わたしのために祈ってちょうだい」(p.321)

 

すべての女がフローラ・トリスタンになることは不可能だけれど、自分にとって大事な何かを守りたいと思うここ一番の瞬間に「女にはできない」という呪いに負けないよう、彼女の姿をお守りにして生きたい。

 

女であることが障害になっただろうか、フロリータ。本当のところ、そうでもなかったね。障害になったといえばなったかも知れないけれども、この八か月のあいだに労働者と女性の同盟のためにさまざまなプロパガンダを行い、かなりの数の支部を設置することができた。スカートの代わりにズボンをはいていたとしてもこれ以上は無理だっただろう。(p.576)

 

フローラの孫であるポール・ゴーギャンも、高給取りとして働きながら送るブルジョア生活と妻子を捨て、タヒチに移住し、芸術に殉教した。

 

ベン、わかるかな。もし俺が証券会社で働き続けていたら、メットや子供たちを殺してしまったかもしれないんだ。たとえそのことでギロチンに送られることになっても(p.516)

 

善人シュフはあの裏切り行為に気づいていただろうか。もし気づいていたとしたら、おまえを許すだけの度量があったのだろう。あのアルザス人は崇高な人間だ。文明的道徳の規範においては疑いなくおまえのずっと上を行く。だからこそ、疑いなく善人シュフは、いつになっても絵が下手なのだ。(p.542)

 

男性性を誇りに生きてきたゴーギャンが、タヒチのマフー(性別が曖昧な人々)との出会いで、性の不確かさや、あらゆる規範からの限りない自由を感じる海辺のシーンには「文学ここにあり」の思い。今まで読んだどんな小説の青より、美しい海の青が見えた。

 

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