ポテトとサルバドーラ

海外文学の読書感想文

『ボヴァリー夫人』ギュスターヴ・フローベール

 

ボヴァリー夫人

ボヴァリー夫人

 

 素晴らしい作品だった。名作に出会うと、しばらくその物語から派生する物思いに頭を占拠されてしまうものだが、本作はまさにそういったものだった。自分の人生に、この物語が溶け込んでいく。

 

本作は、才色兼備の魅惑的な女性であるエマが、凡庸な夫シャルルとの結婚生活に幻滅し、次々と不倫をしながら悲劇的な最期を迎える物語である(次々と、と言っても実は2人だけなのだが)。

 

不倫というのは、世間的には、皆が従うべき社会的規範を破って自分の欲望の充足を目指す「ずるい」行為であると考えられている。しかし、不倫というものが致命的に損なうものは、配偶者をはじめとする「他者」であると同時に、不倫を行った自分自身の自尊心であり、自尊心の破壊は本人を内側から蝕んでいく(もちろん、配偶者へのダメージも半端ではないことは本作の結末からも理解される)。

 

夫シャルルも相当に気の毒なのであるが、彼は不倫をせず最後まで妻を愛したという点で自分自身を承認する余地があるし、潜在的にも無数の味方がいると思ってよい。それに対して、エマは確かに全くの自分勝手で周囲に迷惑をまき散らしたが、彼女の味方はこの世に誰もおらず、縋れるものはただ神の慈悲のみ。自分自身にも深い憎しみを持って、自ら命を絶つ。そういう意味で、もっとも救いがないのはエマである。

 

エマは不倫に走りながら、全然幸せではない。アルコールや薬物への依存と同じように、抵抗しきれぬ不安や焦燥感によって、「不貞行為」に押し出されているのである。そして、最初は輝かしく見える不倫相手との恋にも、やがて夫婦関係のような感情的な停滞(よく言えば安定)が必ず訪れる。

 

なにはともあれ、彼女は幸福ではなかった。これまで一度も幸福ではなかった。人生のこの不満はどこからくる?たよりにしているものがまたたくまに虫ばまれるのはなぜ?(中略)どの微笑にも倦怠のあくびがかくされている。どのよろこびにも呪いが、どの快楽にも嫌悪がかくされている。もっともいい接吻ですら、もっと大きな逸楽へのみたされぬ欲望を唇にのこすばかり(pp.393-394)

 

レオンがエマに飽いたのと同じくらいに、エマも相手に嫌気がさしていた。エマは姦通のうちに結婚生活のあらゆる平凡さを見出していた。でも、どうしたら彼と別れることができよう!そして、このような幸福の下劣さに屈辱を感じながらどうにもならず、やはり習慣から、または退廃からそれに執着した(p.404)

 

そして、シャルル。彼は小さな頃からコツコツと真面目にやってきた田舎の医師であり、エマを穏やかに深く愛し、彼女に常に献身してきた。しかし、エマにとって彼は、忌み嫌うべき「凡庸」の塊であり、諸悪の根源として認識される。

 

解説で引用されるチボーデの言葉を孫引きさせてもらえば、「シャルルの欠点は«そこにいる(être)»こと」(p.499)であり、「なんら積極的なものをもたず、ただそこにあるといった存在そのものの愚劣さ、たえがたさ」(p.499)が彼の欠陥であった。可哀想だと言っておきながらだが、心密かに「そういうこともあるかもな・・・」と共感してしまいもするのは私だけだろうか。

 

最後に、結婚生活への期待を裏切られ、その単調さに狂っていくエマにシャルルの母親が言い放つ言葉。

 

しっかり働くこと、手仕事をやることさ、世間の女のように食べるためになんとかしなけりゃならんひとなら、あんなふさぎ病はおこりゃしないよ。つまらんことばかし考えるから、暇でのらくらしてるから、おこる病だものね(p.163)

 

美しい退廃の空気をぶち壊し、地に足を叩き付けるこの百姓の一言に、人生を幸福にするための叡智が詰まっているとしみじみ思う。