ポテトとサルバドーラ

海外文学の読書感想文

『わたしの全てのわたしたち』サラ・クロッサン

最近、ご縁があって、ある書店の選書の仕事をしている。人生で初めて「テーマに沿って本を選ぶ」ということをしているのだが、この作業によって読書の幅がぐっと広がっていき、とてもわくわくしている。今回のテーマは「他者」。本を探すために書店の棚の前で真剣に帯を睨んでいたときに出会ったのが、サラ・クロッサン『わたしの全てのわたしたち』だった。

 

 

訳者に最果タヒの名があり、詩人が翻訳?と思ってパッと手に取ったら、なんと内容が、結合性双生児のティーンエイジャーの日記風の散文詩だった。金原瑞人が訳をして、最果タヒが書き直したということらしい。そしてこれが本当に、面白かった。

 

いわゆる「普通の人」と著しく異なる特徴を持つ人たちに対して、私たちの想像力や関心は時に歪な形をとる。そして普通よく知らない相手には、決してしないようなことをしたり、聞かないようなことを尋ねたり(本書の例なら、子宮が何個あるか聞く、遠くから隠し撮りする等)してしまう。その結果、両者の関係性も歪なものになっていく。そしてその居心地の悪さは、多くの場合、多数派には一瞬の出来事であり、少数派にとっては日常茶飯事となる。

 

主人公は坐骨結合体双生児の一人である16歳のグレース。腰から下の身体を、ティッピと共有している。

 

彼女たちは、身体の一部を共有し合い生きているということにおいては特殊な経験をもっている一方で、他の部分では、SNSを使いこなし、酒もたばこもやってみたいし、おしゃれもしたいし、恋もしたい、普通の10代である。

 

そんなグレースの目線で紡がれる言葉に、何度も揺さぶられる。

 

入院したとき、見たもの。顔が半分溶けた男の子、鼻が取れて、耳もベーコンみたいにぶら下がっている女の人。こわいとおもった。おもったけれど、それを醜いって誰かが言うとしたら信じられない。そんな、残酷なことを言う人間に、私は絶対なりたくない。

 

だけど、わかる。

ティッピ。みんな、グロいって、私たちのこと、思っているよね。離れて、全身を見るともうほんとグロい。ふたりだった体が、急に、腰のところでひとつになるの。(…)

 

私たち、決して、みんなと同じではない。

でも。

だから?

だから醜いの?(p.45-46)

 

私には聞こえた。誰かの言う真剣な、ふざけてもからかってもいない、心からの言葉。

「あれ以上の不幸って、ないと思うの」 

 

私は、100個は言えると思った。

 

この体で生きること、ティッピと一緒に生きること、それより辛いことなんて、100個だって10000個だってあると思った。(…)

 

児童虐待、食糧不足、大虐殺、干ばつ。毎日、ニュースから流れてくる不幸な人たち。その人たちと入れ替わりたいなんて、絶対思わない。私の体はそれよりもずっと不幸、なんて言えるわけがない。(pp.105-106)

 

グレースの目から見る世界に、なるほどと思わされ、自分の死角が照らされていく。でも、だからといって、身体がくっついた状態で生きることがどういうことなのかは、やはりよく分からない。グレースが「たった一人で生まれて、たった一人で生きるなんて、リアリティがなさすぎる」と思うのと同様に、ずっと他人と身体を共有しながら生きることには、依然として私にはリアリティがない。

 

自分とは異なる人間を理解しようとすることは、誰が相手でも本当に難しい。それは、相手がマイノリティだろうが、そうでなかろうが同じだ(両者の差異は、理解の難易度というよりは、むしろ理解の失敗がもたらす結果の暴力性だと思う)。

 

「理解とは、誤解の総体にすぎない」と村上春樹は言ったが、本作の著者であるサラ・クロッサンは自身が結合性双生児なのではなく、結合性双生児について本やドキュメンタリーを通じて学んだ事を下敷きにしてフィクションとしてこの本を書いた。そういう意味で、本作そのものが「誤解の総体」なのかも知れない。

 

私たちが、自分とは異なる人格を持つ一人の人間を前にして、相手を「理解」しようとする行為が、すべて「誤解」に終わる世界にあって、私たちにできることはなるべく誠実であることだけだ。

 

結局、いくら他者のことを学んでも、我々は他者の地雷を踏み続けてしまうし、同様にして自分の地雷も相手に踏まれ続ける。でも、その爆発と大けがの後で、なお関わりを捨てたくないと思う相手は、どんな人だろう。私はそれは、「理解」という失敗が約束された試みを、とにかくやめない人なのではないかと思う。そして、そういう精神的な在り方を誠実と呼ぶのだと思う。