ポテトとサルバドーラ

海外文学の読書感想文

『タタール人の砂漠』ブッツァーティ

 

タタール人の砂漠 (岩波文庫)
 

 今を生きることができないとはどういうことか。

 

人生の最も輝かしい瞬間、それは常に未来にあるのだという確信を持って生きている若者は多い。それを日々生きる糧にしている。状況は、今より未来の方が必ず良いのだ、と。

 

これは生きる上ではとても重要なことだ。人は暗い未来に向かって生きることができるほど強くはない。将来に希望がないと確信しながら楽観的に生きられるのは超人だけである。

 

しかし未来志向が行き過ぎると、現在を生きることができなくなってしまう。この今目の前にある一瞬一瞬をいかに充実したものにできるのか、その視点がなくなってしまうと、バスティアーニ砦のじいさん達になってしまう。

 

主人公のジョバンニ・ドローゴは20歳そこそこでバスティアー二砦に赴任する。国境を守ることは軍人にとって名誉なことであり、町でもバスティアーニ砦は国の要諦であり、そこで働くことは名誉なことだと言われていた。しかし、実際のところ、砦は意味ある仕事の何もない、いわば左遷先であった。この国境に敵が攻め込んできたことなど何十年もなく、砦の前には荒涼とした砂漠が広がっているのみ。しかし、バスティアーニ砦の軍人たちは、いつか砂漠の向こうに住むタタール人が国境に攻め入り、自分たちが功名を立てる日が来ると信じて生きている。本当は来ないと心のどこかで分かっていても、外部と遮断された砦での生活に何十年もかけて慣れきってしまった彼らにとって、自らの人生を有意義なものにする最後のチャンスはタタール人の襲来なのであり、それを信じるしか生きていく術が無いのである。主人公はさっさとこんな恐ろしい場所を出て行こうとするのだが、彼自身もだんだん慣性という病におかされていく。

 

人生が今と今と今によって構成されていくということを忘れると、気づいたらじいさんばあさんになっている。節目ごとに人生の軌道を確認していかないとなと背筋が伸びる話だった。

 

最後にジョバンニ・ドローゴは、彼に襲来する最初で最後の最強の敵、すなわち「死」と戦う。

 

それは春の青空のもと、砲声や雄たけびの轟く中、城壁上で戦うべき敵ではなかった、その戦いでは、かたわらに勇気を鼓舞してくれる味方の姿もなく、大砲や小銃の刺すような硝煙のにおいもなく、栄光の約束もなかった。すべてが、名も知らぬ旅籠の部屋の、蝋燭の明かりのもと、まったくの孤独の中で起こる戦いなのだ。陽の輝く朝、若い娘たちの笑顔の中を、花冠をかざして凱旋するための戦いではない。誰ひとり見るものもなければ、また、よくやった、と言ってくれる者とていないのだ。(p.336)

 

死以外の内的な戦いというものも、概してこういう様相を呈している。私たちが戦うべき相手は、空想のタタール人ではなく、慣性に抗うことから逃げて人生を蕩尽しようとする自分の弱さだ。そしてその戦いは誰にも知られることはない。