ポテトとサルバドーラ

海外文学の読書感想文

『心臓を貫かれて』マイケル・ギルモア

すごい話だった。毎晩、夜更かししながら読み進め、悲しみとやりきれなさに押しつぶされそうな夜を過ごした。

心臓を貫かれて 上 (文春文庫)

心臓を貫かれて 上 (文春文庫)

 
心臓を貫かれて 下 (文春文庫)

心臓を貫かれて 下 (文春文庫)

 

 本作は、死刑制度廃止の機運が高まっていた1976年のアメリカで「死刑になる権利」を主張し、世界的に話題となったゲイリー・ギルモアの弟マイケルが、自分たちの家族とその歴史について、回想したノンフィクションである(オリジナルの英語版が出版されたのは1994年)。回想に加えられた考察が深遠で、語り全体に説得力と迫真力を与えている。

 

ゲイリー・ギルモアは1940年に、広告詐欺を働きながらアメリカ中を転々とする両親の間に生まれた。父親は何度も詐欺で服役を経験しており、家庭では母子に苛烈な暴力を加えていた。また父親は、複数回にわたる結婚経験があり、アメリカ中に子どもがおり、しばしば行方をくらます。著者のマイケルは末っ子だったこともあり、父親からの寵愛を受けていたが、ゲイリーを含む彼の兄たちは最悪に荒廃した家庭環境において心に深い傷を負い、何人かは犯罪行為に走った。ゲイリーも10代の頃から窃盗、傷害、薬物などで刑務所の出入りを繰り返していた。1976年、当時35歳のゲイリーは、強盗に入ったガソリンスタンドの店員と、モーテルの管理人を射殺し、そのかどで死刑判決を受けた。

 

以前、訳者の村上春樹がインタビューか何かで「分析的なものをあらかじめ読んでしまうことは、小説家として現象を理解することの妨げになることがある」といった主旨のことを話していたが、『心臓を貫かれて』を読んで、「貧困の再生産」という分析の言葉で了解してきた現象を、自分が本当にはよくわかっていなかったのかも知れないと感じた。その人に憑依して、追憶の中で共に痛むこと。こういった営みを慎ましく行うことを通じてしか、理解できない領域がある。

 

ゲイリーの処刑の前、マイケルが彼に面会に行ったときの場面。

彼の目に浮かぶ恐怖の色は、いつも刑務所について語るときにもっとも鮮明だった。目前に迫った自分の死について語るときよりも、はるかに鮮明だった。おそらく前者はこれまでいやというほど味わってきたがちがちの現実であり、後者は単なる抽象概念だったからだろう。「死は俺にとってはとくに目新しくもないし、怖くもない。俺はたぶんそいつをすでに経験している」(下巻、p.251)

 

今、愛する誰かが決められた時刻に、決められた場所で、決められた方法で死んでいこうとしている。あなたはそれをなんとか乗り越えて生きていこうとしている。いや、そればかりじゃない。あなたはこれから先ずっと、そのような死を要求した世間の中で暮らしていかなくてはならない。あなたの肉親が―彼自身がずっと昔に感情的に殺害された男である―殺されたことを快哉に叫ぶ人々と、これから毎日通りですれ違わなければならないのだ。あなたはその世間の中で生活し、まわりの人々を憎むか、あるいはうまく折り合いをつけていくしかない。なぜならそれは、あなたにとって唯一の世界だからだ。それ以外にあなたに選べる世界はない。(pp.262-263)

 

加害は被害を生む。ゲイリーは父から受けた精神的・身体的な暴力の被害者であり、その傷を抱えて生き抜いていくために加害行為に走った。多くの加害と被害はこうやって円環になっていく。私が考えたいのは、加害者の救済についてである。加害者にとっての救済とは何であるのかということ、そしてそれはいかにして倫理にかなうのかということ。

 

加害者の救済を語るのは難しい。被害者という絶対的な存在を前にして、そんなことを語ることは許されないのではないかと躊躇する。自分が被害者になったときでも、加害者の救済なんて本当に考えることができるのか?と疑ってしまうし、きっとできないと思う。しかし、加害者の救済について考えていかなければ、加害と被害の連鎖を止める努力を放棄してしまうことになるだろう。

 

加害のレベルは違えども、かつての被害の経験が生んだ精神的な苦しみに振り回されて、他人を傷つけずには生きていくこともできないという点でゲイリーに共感を覚える人は多いと思う。加害と被害の円環の中にあって、誰に何の責任を負わせることができるのか判断するのは難しい。

 

加害を行った時点で、法的に処罰することはできるし、それで終わりだということもできる。しかし、『心臓を貫かれて』は、加害行為に刑罰を与えるということと、加害者の精神的な変化は本質的には関係がないことをよく示している。加害者が精神的に変わること、その罪と同居しながらも生きていける分だけの僅かな承認を、自己に認めることができるような「救済」は、自分の罪をその被害者に許してもらうこととも、別の次元の話なんじゃないかと思う。つまり、それは他人からどう思われるか、何をされるか、ということよりは、もっと内的な出来事に関係があるのではないかと思う。

 

加害者の「救済」について、詩人の石原吉郎は以下のように述べている。彼はシベリア抑留の経験から、物資が乏しく、過酷な労働を課される強制収容所の中では、自らが生きのびようとすることは、他の収容者を死の側に押しやることであるであることを知った。少し長いが引用する。

おそらく加害と被害が対置される場では、被害者は<集団としての存在>でしかない。被害においてついに自立することのないものの連帯。連帯において被害を平均化しようとする衝動。被害の名における加害的発想。集団であるゆえに、被害者は潜在的に攻撃的であり、加害的であるだろう。しかし、加害の側に押しやられるものは、加害において単独となる危険にたえまなくさらされているのである。人が加害の場に立つとき、彼はつねに疎外と孤独により近い位置にある。そしてついに一人の加害者が加害者の立場から進んで脱落する。そのとき、加害者と被害者という非人間的な対峙のなかから、はじめて一人の人間が生まれる。<人間>はつねに加害者のなかから生まれる。被害者のなかからは生まれない。人間が自己を最終的に加害者として承認する場は人間が自己を人間として、ひとつの危機として認識し始める場所である。

私が無限に関心をもつのは、加害と被害の流動のなかで、確固たる加害者を自己に発見して衝撃を受け、ただ一人集団を立去っていくその<うしろ姿>である。問題はつねに、一人の人間の孤独な姿にかかっている。ここでは、疎外ということは、もはや悲惨ではありえない。ただひとつの、たどりついた勇気の証しである。

そしてこの勇気が、不特定多数の何を救うか。私は何も救わないと考える。彼の勇気が救うのは、ただ一人かれの<位置>の明確さであり、この明確さだけが一切の自立の保証であり、およそペシミズムの一切の内容なのである。単独者が単独者として自己の位置を救う以上の祝福を、私は考えることができない。(『石原吉郎詩文集』、「ペシミストの勇気について」、pp.112-113)

加害者にとって救済なるものが存在するとしたら、それは加害者である自己を見つけ、孤独に生きていくということである(この点については、J・M・クッツェー『恥辱』のデイヴィッド・ラウリーの行く末についても引用したくなる)。

 

そして、その「自己の<位置>の明確さ」が加害者に与える安息のいかに微かなことか。でも、人は自分の加害の過去を引き受けて精神的に正しく自立するときに初めて、加害者という立場から別の場所へいけるスタート地点に立てる気がする。それがどんなに絶望的で主観的な努力であっても、加害者としての立場に抗うこと以外に、加害者の救済を今は思いつかない。ゲイリーにはどんな救済があったのだろう。もう1回読んでじっくり考える必要があるのだろうが、これは大仕事だ。

 

ああ、どこまでも暗い。 

石原吉郎詩文集 (講談社文芸文庫)

石原吉郎詩文集 (講談社文芸文庫)