ポテトとサルバドーラ

海外文学の読書感想文

『青い眼が欲しい』トニ・モリソン

白い肌、高い鼻、大きな目・・・女性に当てがわれる美の定規は、多くの場合、白人の身体的特徴を最大値に据えている。大部分のアジア人の自然な身体とは異なるそれらの理想に、自分自身を近づけるべく努力することを強要されてきた私たちにとって、この本のテーマは深刻なものである。

 

青い眼がほしい (ハヤカワepi文庫)

青い眼がほしい (ハヤカワepi文庫)

 

 本書には、ピコーラという10歳そこそこの黒人の少女が受ける人種差別と、その結果生まれる「青い眼」に象徴される白人的な美しさへの悲しい希求が描かれている。ここでは人種差別を巡って単純に白人の傲慢を糾弾するというより、差別というものがどのように個々の黒人の感性に浸透し、黒人コミュニティの行動様式を決定していくのか、ということを丁寧に描くことに重点が置かれている。私が心に重く受け止めたのは、黒人の差別の内面化である。

 

ブリードラヴ一家が店の通りに面した部屋に住んでいたのは、工場の縮小に伴う一時的な困窮状態にあったからではない。彼らは貧しくて黒人だったので、そこに住み、自分たちを醜いと思っていたので、そこに留まったのだ。(…)彼らがどうしようもなく、見て不快になるほど醜い訳ではないと、彼ら自身に納得させることはだれにもできなかっただろう。(…)自分たちのものではないのに、醜さを身につけ、いわば着ているようなものだった。(pp.57-58)

 

人は彼らを見ると、どうしてこの人たちはこんなに醜いのだろうと考えてしまう。だが、しげしげと眺めてみても、原因を見つけだすことはできない。やがて、その醜さは確信から、彼らの核心から来ていることがわかる。(…)神が「おまえたちは醜い」と言ったのだ。彼らは周りを見まわしたが、その言葉と矛盾するものは何も目に入らなかった。それどころか、すべての広告板、すべての映画、すべての視線から、これを支持するものばかりが押し寄せているのを見た。(p.58)

 

差別の忌々しいゴールは、差別される者に自己嫌悪を抱かせることである。登場人物たちの人生に触れると、60年代のアメリカで彼らが叫ばなければならなかった’’Black is beautiful”というスローガンに静かに深く頷ける。

 

都会を歩いたり、テレビをつけていると、広告をはじめとする膨大な情報たちが、私たちの容姿の欠点を指摘し、追い詰め、商品を購入することで美しくなれるとささやいてくる。でもそんなのって少し変だと思う。「私」が美しいのかどうかの最高決定機関は、よぼよぼになって天国にいくまで、ずっとその人自身である。

『女の一生』ギ・ド・モーパッサン

自分が今持っているものを慈しんで生きるのは、とても難しいことである。いつも「ここではないどこか」「これ以上のなにか」を求めて、人は不幸になっていく。

女の一生 (光文社古典新訳文庫)

女の一生 (光文社古典新訳文庫)

 

本作の舞台は19世紀のフランス、ノルマンディ。田舎貴族の一人娘であるジャンヌが結婚に絶望し、人生に絶望し、時々点滅的に現れるわずかな希望を頼りに生きていくというお話である。

 

この物語の中で「恋愛」や「結婚」は、人生を輝かしいものに変える魔法としてジャンヌに期待を持たせながら、現実には彼女を打ちのめすあらゆる不幸の始まりとして描かれている。

 

ジャンヌが結婚し、新婚旅行から戻ってきた後のセリフ。結婚によってもたらされる事態がこのようなものであれば確かに夫婦生活は地獄である。

 

もう、何もすることがない。この先、何もやることがないのだ。修道院で過ごした少女時代、将来のことばかり考え、夢ばかり見ていた。あのころは、希望に胸を高鳴らせることの繰り返しが生活のすべてであり、時間は気づかぬうちに過ぎていった。ずっと恋に憧れていたのに、彼女の夢想を閉じ込めてきた塀の外に出てみると、すぐにその夢がかなってしまった。(…)だが今や、蜜月の日々が終わり、日常の生活が始まる。それは扉が閉ざされるということ、ただひたすら希望をふくらませ、不安ながらも胸をときめかせる日々はもう戻らないということだった。未来を待つ日々は終わったのだ。もうやることがない。今日も、明日も、この先もずっと。(pp.137-138)

 

結婚がこういうものであった時代と階級の女性たちにとって、人生はどんなにお金や地位があっても易いものではなかったと思う。

 

解説にもあるが、ジャンヌといえば、真っ先にジャンヌ・ダルクを思い出すが、本作のジャンヌはそれとはまったく対照的に、受け身で自分の頭で考えるということをまるでしない。

 

「他者との関係性」ばかりが幸福の源である人間というのは、なかなか幸せを手にできない。とにかくジャンヌは、夫であるジュリアンが、息子のポールが、自分を愛してくれるのか、大事に思ってくれるのか、ということにばかりに振り回されて不幸になっていく。他者の心や運命というものは、基本的には自分の領域の埒外にあるものである。例えば、自分にどんな良い素質が備わっているのかということよりも、相手のその時点での価値観や人生経験などが自分との関係性をいかなるものにするのかを決定付ける要素として大きいことはしばしばある。

 

私が最も好きな登場人物はジャンヌの家の女中で、のちに農婦となるロザリである。物語の序盤、ロザリの運命は本当に胸の痛むものだが、その不条理が彼女を現実的で地に足のついた人間に育てていく。

 

ボヴァリー夫人のシャルルの母もそうだが、ジャンヌやエマのようにある意味贅沢な憂鬱症になっている貴族の娘に、生きる上での必然的な選択のみを行って生活する彼女たちの差し向ける言葉はいつも正気だ。ロザリのそれまでの人生を考えると、この言葉の重みがより一層感じられる。

 

何かといえば「私はつくづく運がない」とつぶやき、そのたびにロザリに大声で叱られる。

「食べるものに困って働かなければならないわけでも、毎朝6時に起きて一日じゅう働くわけでもないのに、何をおっしゃいますか。そうでもしなければ生きていけない人はたくさんいるんですよ。そういう人たちは一生懸命働いた挙句に、年をとって働けなくなったら、惨めに死んでいくしかないんですからね」

「でも、私、息子に捨てられて一人ぼっちなのよ」

「それぐらい何ですか!子どもが兵隊にとられたり、アメリカに行ってしまった人だっているんですよ!」(p.419)

 

地位や才能やお金など、一般的に良いとされているものでさえ、何かを「持っている」という状態は、人を不自由にすることがある。作者モーパッサンは、才能に恵まれながらも結構しんどい人生を送っていたようで、42歳で自殺未遂をして、パリの精神病院に入院し、そこで亡くなっている。

 

掃除、洗濯、賃労働、なんでもよいから、毎日の「些事」に一生懸命になって生きたいものだと思う。

『楽園への道』マリオ・バルガス=リョサ

普段、3冊くらいは同時に本を読むのだが、今回は『楽園への道』にだけひたすら夢中になった。面白くないページが無い、素晴らしい作品だった。 

楽園への道 (河出文庫)

楽園への道 (河出文庫)

 

本作は、画家のポール・ゴーギャンと、その祖母であり最初期のフェミニストのひとりであるフローラ・トリスタンの人生を交互に語るという形式で書かれている。

 

それぞれの人生にのしかかる抑圧からの自由を求めて体制に反旗を翻す二人の姿に胸が熱くなる。

 

19世紀の女性差別は目を覆いたくなるほど凄まじい。女が自由に生きるということは、それそのものが背徳行為であり、法律によって処罰される時代だ。フローラは、夫と子どもを捨て、自分自身の自由と社会変革のために身を捧げた。身を削りながら女性と労働者の連帯を求めてヨーロッパを行脚し、41歳の若さで死んだ。

 

フローラの物語には、彼女と同じように世間の誹りと戦いながら自由を選んだ女、ドミンガ・グティエレス修道院から脱走した女性)が登場する。彼女とフローラが出会う場面は、醜聞を引き受けてでも自分の人生に誠実であろうとしたことがある人々の心に沁み入るものがある。

 

確かにいけない行為だった。けれど自分の精神、考えがずっとずっと嫌悪していたあの幽閉生活から抜け出すために、他のどんな方法があったというのでしょうか。あきらめるのですか。自暴自棄になるのですか。それとも自殺するのですか。それが神の望んでいることなのでしょうか。ドミンガが一番悲しく思ったのは、あの背信行為以降、母親が娘は死んだものと思っていると言ってきたことだった。(…)ごたごたがすべて片づいたら、リマに出て、名もない一人の人間として自由に生きることを許してほしい、たとえ女中をして働いてもいい。別れに及んでフローラの耳元で彼女はささやいた。「わたしのために祈ってちょうだい」(p.321)

 

すべての女がフローラ・トリスタンになることは不可能だけれど、自分にとって大事な何かを守りたいと思うここ一番の瞬間に「女にはできない」という呪いに負けないよう、彼女の姿をお守りにして生きたい。

 

女であることが障害になっただろうか、フロリータ。本当のところ、そうでもなかったね。障害になったといえばなったかも知れないけれども、この八か月のあいだに労働者と女性の同盟のためにさまざまなプロパガンダを行い、かなりの数の支部を設置することができた。スカートの代わりにズボンをはいていたとしてもこれ以上は無理だっただろう。(p.576)

 

フローラの孫であるポール・ゴーギャンも、高給取りとして働きながら送るブルジョア生活と妻子を捨て、タヒチに移住し、芸術に殉教した。

 

ベン、わかるかな。もし俺が証券会社で働き続けていたら、メットや子供たちを殺してしまったかもしれないんだ。たとえそのことでギロチンに送られることになっても(p.516)

 

善人シュフはあの裏切り行為に気づいていただろうか。もし気づいていたとしたら、おまえを許すだけの度量があったのだろう。あのアルザス人は崇高な人間だ。文明的道徳の規範においては疑いなくおまえのずっと上を行く。だからこそ、疑いなく善人シュフは、いつになっても絵が下手なのだ。(p.542)

 

男性性を誇りに生きてきたゴーギャンが、タヒチのマフー(性別が曖昧な人々)との出会いで、性の不確かさや、あらゆる規範からの限りない自由を感じる海辺のシーンには「文学ここにあり」の思い。今まで読んだどんな小説の青より、美しい海の青が見えた。

 

リョサをもっともっと読みたい。

『ボヴァリー夫人』ギュスターヴ・フローベール

 

ボヴァリー夫人

ボヴァリー夫人

 

 素晴らしい作品だった。名作に出会うと、しばらくその物語から派生する物思いに頭を占拠されてしまうものだが、本作はまさにそういったものだった。自分の人生に、この物語が溶け込んでいく。

 

本作は、才色兼備の魅惑的な女性であるエマが、凡庸な夫シャルルとの結婚生活に幻滅し、次々と不倫をしながら悲劇的な最期を迎える物語である(次々と、と言っても実は2人だけなのだが)。

 

不倫というのは、世間的には、皆が従うべき社会的規範を破って自分の欲望の充足を目指す「ずるい」行為であると考えられている。しかし、不倫というものが致命的に損なうものは、配偶者をはじめとする「他者」であると同時に、不倫を行った自分自身の自尊心であり、自尊心の破壊は本人を内側から蝕んでいく(もちろん、配偶者へのダメージも半端ではないことは本作の結末からも理解される)。

 

夫シャルルも相当に気の毒なのであるが、彼は不倫をせず最後まで妻を愛したという点で自分自身を承認する余地があるし、潜在的にも無数の味方がいると思ってよい。それに対して、エマは確かに全くの自分勝手で周囲に迷惑をまき散らしたが、彼女の味方はこの世に誰もおらず、縋れるものはただ神の慈悲のみ。自分自身にも深い憎しみを持って、自ら命を絶つ。そういう意味で、もっとも救いがないのはエマである。

 

エマは不倫に走りながら、全然幸せではない。アルコールや薬物への依存と同じように、抵抗しきれぬ不安や焦燥感によって、「不貞行為」に押し出されているのである。そして、最初は輝かしく見える不倫相手との恋にも、やがて夫婦関係のような感情的な停滞(よく言えば安定)が必ず訪れる。

 

なにはともあれ、彼女は幸福ではなかった。これまで一度も幸福ではなかった。人生のこの不満はどこからくる?たよりにしているものがまたたくまに虫ばまれるのはなぜ?(中略)どの微笑にも倦怠のあくびがかくされている。どのよろこびにも呪いが、どの快楽にも嫌悪がかくされている。もっともいい接吻ですら、もっと大きな逸楽へのみたされぬ欲望を唇にのこすばかり(pp.393-394)

 

レオンがエマに飽いたのと同じくらいに、エマも相手に嫌気がさしていた。エマは姦通のうちに結婚生活のあらゆる平凡さを見出していた。でも、どうしたら彼と別れることができよう!そして、このような幸福の下劣さに屈辱を感じながらどうにもならず、やはり習慣から、または退廃からそれに執着した(p.404)

 

そして、シャルル。彼は小さな頃からコツコツと真面目にやってきた田舎の医師であり、エマを穏やかに深く愛し、彼女に常に献身してきた。しかし、エマにとって彼は、忌み嫌うべき「凡庸」の塊であり、諸悪の根源として認識される。

 

解説で引用されるチボーデの言葉を孫引きさせてもらえば、「シャルルの欠点は«そこにいる(être)»こと」(p.499)であり、「なんら積極的なものをもたず、ただそこにあるといった存在そのものの愚劣さ、たえがたさ」(p.499)が彼の欠陥であった。可哀想だと言っておきながらだが、心密かに「そういうこともあるかもな・・・」と共感してしまいもするのは私だけだろうか。

 

最後に、結婚生活への期待を裏切られ、その単調さに狂っていくエマにシャルルの母親が言い放つ言葉。

 

しっかり働くこと、手仕事をやることさ、世間の女のように食べるためになんとかしなけりゃならんひとなら、あんなふさぎ病はおこりゃしないよ。つまらんことばかし考えるから、暇でのらくらしてるから、おこる病だものね(p.163)

 

美しい退廃の空気をぶち壊し、地に足を叩き付けるこの百姓の一言に、人生を幸福にするための叡智が詰まっているとしみじみ思う。

『新編 不穏の書、断章』フェルナンド・ペソア

 

新編 不穏の書、断章 (平凡社ライブラリー)

新編 不穏の書、断章 (平凡社ライブラリー)

 

 

 全体を理解しようなんてことは、ほぼ不可能である。ただ、自分という人間の中で十分に熟している何らかの考えと、ペソアの言葉がぐっと接近する瞬間があり、その時自分にとっての意味が立ち現れる。ほとんど何のことを言っているのか分からない言葉の海の中で、その瞬間を今か今かと待っている。単なる苦痛のようだけれど、何度この本を閉じたとしても、また必ず戻っていくことになる。なぜならそこには自分にとって決定的に必要ななにかがあるという感覚があるからだ。

 

本書の前半部は本名で書かれた詩であり、後半部はペソアの異名ベルナルド・ソアレスによって書かれた日記のような断片的な文章が続く。

 

一人でいることの重要性を決して忘れたり、軽んじてはならない。そういったことを日常にかまけて人と親和しながら生きていると、うっかり忘れてしまうことがある。

 

詩人であることは私の野心ではない それはひとりでいようとする私のあり方にすぎない(p.19)

 

偉大であるためには 自分自身でなければならない なんであれ 誇張せず 排除しないこと(p.85)

 

芸術とは孤立である。芸術家はみな他人から孤立し、また他人に独りでいたいという欲望を与えなければならない(p.299)

 

モンテーニュのエセーでないが、凡庸な言葉で表現してしまえば、ただの一般論や安っぽい厭世になるような内容でも、ペソアの深く根を張った確信と洗練された言語感覚によって全く別ものとなる。

 

世界は何も感じない連中のものだ。実践的な人間であるための本質的条件は感受性の欠如であり、生き抜いてゆくための重要な長所は、行動を導くもの、つまり意志だ。行動を妨げるものが二つある。感受性と分析的思考だ。そして分析的思考とは結局のところ感受性をそなえた思考に他ならない。(中略)したがって行動するためには、他人の個性や彼らの喜びや苦しみを想像してはならない。感情移入してしまうと、動きはとまる。(中略)芸術は、行動が忘れねばならぬ感受性の逃げ道として役に立つのだ。芸術は出不精のシンデレラだが、そうせざるをえないのだ。(p.314)

 

初読では表面的なことにしか気がつかないものなので、数年後もし運命が私にこの本を再読させたら、その時何を感じるかが楽しみだ。きっと全く別のものを引き出すことだろう。

『タタール人の砂漠』ブッツァーティ

 

タタール人の砂漠 (岩波文庫)
 

 今を生きることができないとはどういうことか。

 

人生の最も輝かしい瞬間、それは常に未来にあるのだという確信を持って生きている若者は多い。それを日々生きる糧にしている。状況は、今より未来の方が必ず良いのだ、と。

 

これは生きる上ではとても重要なことだ。人は暗い未来に向かって生きることができるほど強くはない。将来に希望がないと確信しながら楽観的に生きられるのは超人だけである。

 

しかし未来志向が行き過ぎると、現在を生きることができなくなってしまう。この今目の前にある一瞬一瞬をいかに充実したものにできるのか、その視点がなくなってしまうと、バスティアーニ砦のじいさん達になってしまう。

 

主人公のジョバンニ・ドローゴは20歳そこそこでバスティアー二砦に赴任する。国境を守ることは軍人にとって名誉なことであり、町でもバスティアーニ砦は国の要諦であり、そこで働くことは名誉なことだと言われていた。しかし、実際のところ、砦は意味ある仕事の何もない、いわば左遷先であった。この国境に敵が攻め込んできたことなど何十年もなく、砦の前には荒涼とした砂漠が広がっているのみ。しかし、バスティアーニ砦の軍人たちは、いつか砂漠の向こうに住むタタール人が国境に攻め入り、自分たちが功名を立てる日が来ると信じて生きている。本当は来ないと心のどこかで分かっていても、外部と遮断された砦での生活に何十年もかけて慣れきってしまった彼らにとって、自らの人生を有意義なものにする最後のチャンスはタタール人の襲来なのであり、それを信じるしか生きていく術が無いのである。主人公はさっさとこんな恐ろしい場所を出て行こうとするのだが、彼自身もだんだん慣性という病におかされていく。

 

人生が今と今と今によって構成されていくということを忘れると、気づいたらじいさんばあさんになっている。節目ごとに人生の軌道を確認していかないとなと背筋が伸びる話だった。

 

最後にジョバンニ・ドローゴは、彼に襲来する最初で最後の最強の敵、すなわち「死」と戦う。

 

それは春の青空のもと、砲声や雄たけびの轟く中、城壁上で戦うべき敵ではなかった、その戦いでは、かたわらに勇気を鼓舞してくれる味方の姿もなく、大砲や小銃の刺すような硝煙のにおいもなく、栄光の約束もなかった。すべてが、名も知らぬ旅籠の部屋の、蝋燭の明かりのもと、まったくの孤独の中で起こる戦いなのだ。陽の輝く朝、若い娘たちの笑顔の中を、花冠をかざして凱旋するための戦いではない。誰ひとり見るものもなければ、また、よくやった、と言ってくれる者とていないのだ。(p.336)

 

死以外の内的な戦いというものも、概してこういう様相を呈している。私たちが戦うべき相手は、空想のタタール人ではなく、慣性に抗うことから逃げて人生を蕩尽しようとする自分の弱さだ。そしてその戦いは誰にも知られることはない。

『デミアン』ヘルマン・ヘッセ

まさにこの本が必要だった時期が自分の人生にはあった。その時の自分にこれを渡すことができていたらと思う。

 

デミアン (新潮文庫)

デミアン (新潮文庫)

 

 

本書は、敬虔なクリスチャンホームに育った主人公シンクレールが、独自の哲学をもって生きるデミアンという友人を持ち、彼から様々なことを学び取りながら、精神的に豊かに複雑に成長していく物語である。あとがきにもあるように、ヘルマン・ヘッセは本作を契機に、少年時代を美しく素朴に描く前期の作風から、より懐疑的でしっかりとした影を持った物語を書き始めるようになった。

 

成長とは忘恩を不可避的に孕む。ある一つの世界から別の世界に移行したいと願えば、自分が今所属している共同体の価値観を徹底的に否定する時期を持たなければならない。その行為は、今まで自分を温かく支えてくれた人たちを大いに傷つけることである。成長にはそういった暴力的な側面がある。自分の心の中に引き受けていかなければならない分離の悲しさや罪悪感は、成長の代償である。

 

野心のない人でも、一生に一度や二度、敬虔とか感謝とかいう美徳と衝突することは免れない。だれでも一度は父や先生から自分を隔てる歩みを踏み出さなければならない。だれでも孤独のつらさをいかほどか感じなければならない。(p.183)

 

われわれが習慣からではなく、ぜんぜん自由意志から愛と畏敬をささげたような場合、まったく自発的な気持ちから弟子や友だちとなったような場合ーそういう場合には、自己内部の主要な流れが愛するものから離れようとするのに突然気づくと、つらい恐ろしい瞬間になる。そのときは、友だちと先生とをしりぞける思想の一つ一つが毒のあるとげをもってわれわれ自身の胸をさし、防衛の打撃の一つ一つが自分自身の顔に当たるのである。その時は、合法的な道徳を心の中に持っているつもりでいる人間の前に、「不信」とか「忘恩」とかいう名まえが、恥ずべき呼びかけや罪びとの極印のように現れる。そのときは、おびえた心は幼年時代の美徳のなつかしい谷へ恐れおののきつつ逃げ帰り、この絶交が、またこのきずなの切断が必要だった、とは信じることができない。(p.184)

 

星を抱擁することは人間にはできないということを彼は知っていた、あるいは知っていると思った。実現の希望がないのに星を愛するのは運命だ、と彼は考えた。(p.221)

 

この本の中で繰り返されるのは、人間は自分がどういう風になりたいかに惑わされるのではなく、自分の運命というものを感じ取って、その運命を生きろ、という主張である。

 

人生の方向性を定める決定的な出来事は、自分が前向きに、アンテナを張って生きていると突然に訪れる。その流れに従って、その場その場で最大限の努力をすれば、また次の出会いが訪れる。たしかに人生はそういう風にできているかも知れない。

 

後半、デミアンの母が出てきてから、会話の内容がどんどん選民主義的・スピリチュアル的になってきて白けてくるが、まぁこれだけ深く生きていたら他人を「衆愚」と呼んで馬鹿にしたくなる気持ちも分からなくもないので、仕方がない。