ポテトとサルバドーラ

海外文学の読書感想文

『あまりにも騒がしい孤独』ボフミル・フラバル

昨年読んだ作品のなかで間違いなく五本の指に入る傑作だった。

あまりにも騒がしい孤独 (東欧の想像力 2)

あまりにも騒がしい孤独 (東欧の想像力 2)

 

主人公の境遇や性格の設定が、狂おしく良い。主人公のハニチャは圧政下のチェコで故紙の圧縮処分を生業としている中年の男である。彼が処分する紙の中には、検閲の結果、社会に害悪をもたらすとみなされた本や絵画の複製なども含まれており(要するに焚書)、彼はこれらの紙を潰す過程で、美しい文章や絵画に出会い、それらを鑑賞し魅了されるうちに「心ならずも教養が身について(p.7)」しまった。

 

ハニチャは、紙塊を作る圧縮プレスの中に独自の美学に基づいて本や絵画を配列する。彼は、芸術作品としての紙塊の唯一の作者であり、唯一の鑑賞者である。

 

そして僕には分かるのだけれど、思想が全部人間の記憶の中にだけ記録されていた頃は、まだもっと美しい時代だったにちがいない。当時誰かが、本みたいなものを潰そうと思ったら、人間の頭をプレスしなければならなかっただろうけれど、そんなことをしたところで無駄だっただろう。というのも、そういった本当の思想は、人間の外からやってくるもので、お鍋の中の麺みたいに、人の身近にあるものだからだ。だから、世界中の焚書官たちが本を焼いたことで、無駄なことだ。そしてもしそれらの本が何か意味のあることを書き留めていたなら、焼かれる本たちの静かな笑い声が聞こえて来るだけだ。なぜなら、ちゃんとした本はいつも、本の外の世界を指し示しているからだ(pp.8-9)

 

ハニチャは「月に平均二トンの本を潰しているけれど、自分のその敬虔な仕事をこなす力を奮い起こすために、この三五年間に五十メートル・プールか、クリスマスに食べる鯉の養殖池ができるくらいのビール(p.8)」を飲んでいるアル中である。彼は鼠の大群が住まう地下室で、来る日も来る日も自分が心から愛する知性と芸術の象徴たる本や絵画を潰して生きている。両者の繋がりについて、「飲まなきゃやってられない仕事」なんだというのは簡単だけれど、そこにはあと二過程くらい独自の論理が介在した結果の連結がありそうだ。それぐらい、ハニチャという人間は安易な理解を拒む、一筋縄ではいかない人物である。

 

どんな過酷で理不尽な状況下においても、心には自由な領域がある。ハニチャの紙塊作りの美学はそのことをよく示している。しかしそれは全生活の大半を覆う暗雲の中にあって、はっきりと無力である。プラハの春が暴力的に抑え込まれ、徹底的な言論統制が敷かれた社会主義時代のチェコといえば、その暗さたるや想像を絶する。そこにあった美しいものは、誰にも知られることなく、消えていくことだろう。でもそういう場所に、文学にはいつも光をあてていて欲しい。

 

読書中に偶然かけていたエリック・サティピアノ曲が、この物語に運命的に調和していた。

『ペスト』アルベール・カミュ

カミュの作品の感想を書くと思うと毎回憂鬱になる。この感動に自分の言葉が追いつくことは永遠にないだろうなと思うからだ。そして、物語に埋蔵された大事なことの10%だって自分は持ち帰ってこられなかったんだという無力感を感じるからだ。いつも大事な何かがあることだけは分かるのに、読み終わった後には、核心の切れ端のような記憶だけしか残っていない。カミュの作品は、いつもそれだけ私を高揚させ、同時に困惑させる。

ペスト (新潮文庫)

ペスト (新潮文庫)

 

 今、ふせんを貼ったページにもう一度目を通そうとすると、美しい情景が再び私の目の前に広がり見とれてしまう。ペストに汚染され、閉鎖されたこの町で起こる出来事はこんなに美しい。その美しさは、どこまでも無力で、即効的な意味は何も持たない。登場人物たちはそれぞれに固有の道徳律に従って、誠実に生きていこうとする。彼らは、この非常事態が日常化した町で、自分のささやかな職務を全うしながら毎日を過ごす。当然のこととして。

 

「いったい何があなたをそうさせるんです、こんなことにまで頭を突っ込むなんて」

「知りませんね。僕の道徳ですかね、あるいは」

「どんな道徳です、つまり?」

「理解すること、です」(p.192)

 

世間に存在する悪は、ほとんど常に無知に由来するものであり、善き意志も、豊かな知識がなければ、悪意と同じくらい多くの被害を与えることがありうる。人間は邪悪であるよりもむしろ善良であり、そして真実のところ、そのことは問題ではない。しかし、彼らは多少とも無知であり、そしてそれがすなわち美徳あるいは悪徳と呼ばれるところのものなのであって、最も救いの無い悪徳とは、自らすべてを知っていると信じ、そこで自ら人を殺す権利を認めるような無知の、悪徳にほかならぬのである。殺人者の魂は盲目なのであり、ありうるかぎりの明識なくしては、真の善良さも美しい愛も存在しない。(p.193)

 

本作の中で、ペストという疫病の存在は、ホロコーストをはじめとする「悪」との読み替えを示唆してもいる。

 

誰でもめいめい自分のうちにペストをもっているんだ。なぜかといえばだれ一人、まったくこの世にだれ一人、その病毒を免れているものはいないからだ。そうして、引っきりなしに自分で警戒していなければ、ちょっとうっかりした瞬間に、ほかのものの顔に息を吹きかけて、病毒をくっつけちまうようなことになる。自然なものというのは、病菌なのだ。そのほかのもの―健康とか無傷とか、なんなら清浄といってもいいが、そういうものは意志の結果で、しかもその意志は決してゆるめてはならないのだ(…)ずいぶん疲れることだよ、ペスト患者であるということは。しかし、ペスト患者になるまいとすることは、まだもっと疲れることだ。つまりそのためなんだ、誰も彼も疲れた様子をしているのは。なにしろ、今日では誰も彼も多少ペスト患者になっているのだから。しかしまたそのために、ペスト患者でなくなろうと欲する若干の人々は、死以外にはもう何ものも開放してくれないような極度の疲労を味わうのだ。(pp.376-377)

 

自分の生命がこの本と出会う前に終わらなくてよかったと心から思わせる文章がこの倍ぐらいあって、引用したくてたまらない。

 

カミュの作品は死ぬまで何度も読むことだろう。

『神々は渇く』アナトール・フランス

義憤というのは、人を酔わせて、どんな残虐行為でも平気で行わせてしまうという点で非常に危険なものである。

神々は渇く (岩波文庫 赤 543-3)

神々は渇く (岩波文庫 赤 543-3)

 

 

マイケル・ギルモア『心臓を貫かれて』を読んで、加害というテーマの重要性をますます深く自覚していたところ、偶然見かけた紹介文にぐっと心惹かれたのがアナトール・フランス『神々は渇く』だった。

 

狂信的に正義を信じて「普通」の感覚を失ってしまうことは恐ろしい。親兄弟が死んだら悲しい、知らない人でも困っているなら助けたい、そういった凡庸な感性を、正義感に満ち満ちて誇り高く歪めてしまうことの、なんと恐ろしいことか。

 

若きエヴァリスト・ガムランの心的描写は、この視野狭窄が主観的には如何に正しく美しく、あまりにも自明なことであるのかを、その熱と共によく伝えている。ガムランという容器の中に入れられたら、世の中には別の形の正義もあるなんてことはちょっと考えられないだろうと戦慄する。

 

革命のもたらす平和を心から信じていたガムランは、革命裁判所(反革命と見なされた政治犯の裁判を行う)の裁判官として働き始める。フランス革命の最中、粗雑な裁判で死刑判決を頻発し、数千人をギロチン送りにした悪名高き裁判所である。

 

少年よ、君は自由で幸福な人間として大きくなるだろう、そしてそれは忌まわしいガムランのおかげだということになるだろう。僕が兇悪なのは君が幸福になるためなのだ。僕が残忍なのは君が善良になるためなのだ。僕が無慈悲なのは、明日、すべてのフランス人が喜びの涙に暮れながら抱き合うためなのだ。(pp.318-319)

 

僕はあなた(ロベスピエール:引用者注)の意図に奉仕しよう。あなたがあなたの智慧と慈愛によって、市民の確執を終熄させ、同胞相喰む憎悪を消滅させ、死刑執行人をもはやキャベツやレタスの首だけしかはねない庭師となすことができるように、僕は革命裁判所の同僚たちと協力して陰謀者どもや叛逆者どもを皆殺しにして、仁慈への道を準備しよう。われわれは警戒と峻厳とを倍化するだろう。いかなる有罪人もわれわれの眼を逃れることはできないだろう。こうして共和国の敵の最後の一人がギロチンの刃の下に落ちた暁には、あなたは寛大に振舞っても罪を犯すことにはならず、フランス全土に無罪と徳とを漲らせることができるだろう。おお、祖国の父よ!(pp.322-323)

 

ガムランは自分自身の死刑が行われる最期の瞬間まで、自分の正義を決して疑うことはなかった。

 

《俺が死ぬのは正義に叶ったことだ、》と彼は考えた。《共和国に対して投げられるこうした侮辱をわれわれが受けるのは当然だ。われわれは共和国をこうした侮辱から守るべきだったのに、それができなかったのだから。(中略)おれはいたずらに容赦して、人々の血を流すことを惜しんだ。おれの血が流れんことを!おれが非業の死を遂げんことを!それは自業自得のことなのだ。(pp.338-339)

 

ガムランの隣人で、元貴族、今は操り人形を作って細々と生活をしているモリース・ブロトという老紳士がいる。彼の言葉は、作者アナトール・フランスの信念を代弁する。

 

わたしは理性を愛してはいるが、狂信的に愛しているわけではない、とブロトは答えた。理性はわれわれを導き、われわれを照らしてくれる。しかし理性が神と奉られるようなことになったら、それはわれわれを盲目にし、われわれに数々の罪を犯させるだろう。(p.90)

 

正義を振り回して凶暴化する自分に幸運にも気がついた時には、いつもアナトール・フランスの言葉を思い出したい。

 

人間は徳の名において正義を行使するにはあまりにも不完全な者であること、されば人生の掟は寛容と仁慈でなければならない(pp.387 解説)

 

読後アナトール・フランスにとても興味をそそられ、『シルヴェストル・ボナールの罪』にも手を出してみたが、『神々は渇く』を越える震撼は訪れず。でもこの感動が忘れられないので、積ん読に控えている『舞姫タイス』に期待。

『心臓を貫かれて』マイケル・ギルモア

すごい話だった。毎晩、夜更かししながら読み進め、悲しみとやりきれなさに押しつぶされそうな夜を過ごした。

心臓を貫かれて 上 (文春文庫)

心臓を貫かれて 上 (文春文庫)

 
心臓を貫かれて 下 (文春文庫)

心臓を貫かれて 下 (文春文庫)

 

 本作は、死刑制度廃止の機運が高まっていた1976年のアメリカで「死刑になる権利」を主張し、世界的に話題となったゲイリー・ギルモアの弟マイケルが、自分たちの家族とその歴史について、回想したノンフィクションである(オリジナルの英語版が出版されたのは1994年)。回想に加えられた考察が深遠で、語り全体に説得力と迫真力を与えている。

 

ゲイリー・ギルモアは1940年に、広告詐欺を働きながらアメリカ中を転々とする両親の間に生まれた。父親は何度も詐欺で服役を経験しており、家庭では母子に苛烈な暴力を加えていた。また父親は、複数回にわたる結婚経験があり、アメリカ中に子どもがおり、しばしば行方をくらます。著者のマイケルは末っ子だったこともあり、父親からの寵愛を受けていたが、ゲイリーを含む彼の兄たちは最悪に荒廃した家庭環境において心に深い傷を負い、何人かは犯罪行為に走った。ゲイリーも10代の頃から窃盗、傷害、薬物などで刑務所の出入りを繰り返していた。1976年、当時35歳のゲイリーは、強盗に入ったガソリンスタンドの店員と、モーテルの管理人を射殺し、そのかどで死刑判決を受けた。

 

以前、訳者の村上春樹がインタビューか何かで「分析的なものをあらかじめ読んでしまうことは、小説家として現象を理解することの妨げになることがある」といった主旨のことを話していたが、『心臓を貫かれて』を読んで、「貧困の再生産」という分析の言葉で了解してきた現象を、自分が本当にはよくわかっていなかったのかも知れないと感じた。その人に憑依して、追憶の中で共に痛むこと。こういった営みを慎ましく行うことを通じてしか、理解できない領域がある。

 

ゲイリーの処刑の前、マイケルが彼に面会に行ったときの場面。

彼の目に浮かぶ恐怖の色は、いつも刑務所について語るときにもっとも鮮明だった。目前に迫った自分の死について語るときよりも、はるかに鮮明だった。おそらく前者はこれまでいやというほど味わってきたがちがちの現実であり、後者は単なる抽象概念だったからだろう。「死は俺にとってはとくに目新しくもないし、怖くもない。俺はたぶんそいつをすでに経験している」(下巻、p.251)

 

今、愛する誰かが決められた時刻に、決められた場所で、決められた方法で死んでいこうとしている。あなたはそれをなんとか乗り越えて生きていこうとしている。いや、そればかりじゃない。あなたはこれから先ずっと、そのような死を要求した世間の中で暮らしていかなくてはならない。あなたの肉親が―彼自身がずっと昔に感情的に殺害された男である―殺されたことを快哉に叫ぶ人々と、これから毎日通りですれ違わなければならないのだ。あなたはその世間の中で生活し、まわりの人々を憎むか、あるいはうまく折り合いをつけていくしかない。なぜならそれは、あなたにとって唯一の世界だからだ。それ以外にあなたに選べる世界はない。(pp.262-263)

 

加害は被害を生む。ゲイリーは父から受けた精神的・身体的な暴力の被害者であり、その傷を抱えて生き抜いていくために加害行為に走った。多くの加害と被害はこうやって円環になっていく。私が考えたいのは、加害者の救済についてである。加害者にとっての救済とは何であるのかということ、そしてそれはいかにして倫理にかなうのかということ。

 

加害者の救済を語るのは難しい。被害者という絶対的な存在を前にして、そんなことを語ることは許されないのではないかと躊躇する。自分が被害者になったときでも、加害者の救済なんて本当に考えることができるのか?と疑ってしまうし、きっとできないと思う。しかし、加害者の救済について考えていかなければ、加害と被害の連鎖を止める努力を放棄してしまうことになるだろう。

 

加害のレベルは違えども、かつての被害の経験が生んだ精神的な苦しみに振り回されて、他人を傷つけずには生きていくこともできないという点でゲイリーに共感を覚える人は多いと思う。加害と被害の円環の中にあって、誰に何の責任を負わせることができるのか判断するのは難しい。

 

加害を行った時点で、法的に処罰することはできるし、それで終わりだということもできる。しかし、『心臓を貫かれて』は、加害行為に刑罰を与えるということと、加害者の精神的な変化は本質的には関係がないことをよく示している。加害者が精神的に変わること、その罪と同居しながらも生きていける分だけの僅かな承認を、自己に認めることができるような「救済」は、自分の罪をその被害者に許してもらうこととも、別の次元の話なんじゃないかと思う。つまり、それは他人からどう思われるか、何をされるか、ということよりは、もっと内的な出来事に関係があるのではないかと思う。

 

加害者の「救済」について、詩人の石原吉郎は以下のように述べている。彼はシベリア抑留の経験から、物資が乏しく、過酷な労働を課される強制収容所の中では、自らが生きのびようとすることは、他の収容者を死の側に押しやることであるであることを知った。少し長いが引用する。

おそらく加害と被害が対置される場では、被害者は<集団としての存在>でしかない。被害においてついに自立することのないものの連帯。連帯において被害を平均化しようとする衝動。被害の名における加害的発想。集団であるゆえに、被害者は潜在的に攻撃的であり、加害的であるだろう。しかし、加害の側に押しやられるものは、加害において単独となる危険にたえまなくさらされているのである。人が加害の場に立つとき、彼はつねに疎外と孤独により近い位置にある。そしてついに一人の加害者が加害者の立場から進んで脱落する。そのとき、加害者と被害者という非人間的な対峙のなかから、はじめて一人の人間が生まれる。<人間>はつねに加害者のなかから生まれる。被害者のなかからは生まれない。人間が自己を最終的に加害者として承認する場は人間が自己を人間として、ひとつの危機として認識し始める場所である。

私が無限に関心をもつのは、加害と被害の流動のなかで、確固たる加害者を自己に発見して衝撃を受け、ただ一人集団を立去っていくその<うしろ姿>である。問題はつねに、一人の人間の孤独な姿にかかっている。ここでは、疎外ということは、もはや悲惨ではありえない。ただひとつの、たどりついた勇気の証しである。

そしてこの勇気が、不特定多数の何を救うか。私は何も救わないと考える。彼の勇気が救うのは、ただ一人かれの<位置>の明確さであり、この明確さだけが一切の自立の保証であり、およそペシミズムの一切の内容なのである。単独者が単独者として自己の位置を救う以上の祝福を、私は考えることができない。(『石原吉郎詩文集』、「ペシミストの勇気について」、pp.112-113)

加害者にとって救済なるものが存在するとしたら、それは加害者である自己を見つけ、孤独に生きていくということである(この点については、J・M・クッツェー『恥辱』のデイヴィッド・ラウリーの行く末についても引用したくなる)。

 

そして、その「自己の<位置>の明確さ」が加害者に与える安息のいかに微かなことか。でも、人は自分の加害の過去を引き受けて精神的に正しく自立するときに初めて、加害者という立場から別の場所へいけるスタート地点に立てる気がする。それがどんなに絶望的で主観的な努力であっても、加害者としての立場に抗うこと以外に、加害者の救済を今は思いつかない。ゲイリーにはどんな救済があったのだろう。もう1回読んでじっくり考える必要があるのだろうが、これは大仕事だ。

 

ああ、どこまでも暗い。 

石原吉郎詩文集 (講談社文芸文庫)

石原吉郎詩文集 (講談社文芸文庫)

 

 

『オレンジだけが果物じゃない』ジャネット・ウィンターソン

たいていの人がそうであるように、わたしもまた長い年月を父と母とともに過ごした。父は格闘技を観るのが好きで、母は格闘するのが好きだった。何と闘うかは、問題ではなかった。とにもかくにも、自分がリングの白コーナーに立っている。それが大事なのだった。(p.11)

オレンジだけが果物じゃない (白水Uブックス176)

オレンジだけが果物じゃない (白水Uブックス176)

 

ものすごいパンチの出だしである。本屋で立ち読みし、レジへゴーストレート。

 

オレンジだけが果物じゃない』は、作者ジャネット・ウィンターソンの半自伝的小説である。孤児だった主人公ジャネットを引き取った狂信的なキリスト教徒の母は、信徒としての英才教育を彼女に施す。行政からの指導で、ジャネットは普通の学校への通学を余儀なくされるのだが、家で学んだことや教会コミュニティと学校の間の大きな文化差に沢山の問題を抱えこんでしまう。そして、ジャネットは同性愛者である自分を発見し、母親とキリスト教と対決し、別離し、大人になっていく。

 

圧倒的な描写力で悪魔について語り、同級生にトラウマを作ったり、地獄に落ちて泣き叫ぶ不信心者の刺しゅう作品をコンテストに出したり、学校における一般の生徒との乖離っぷりがすごい。

 

このお母さんの狂信ぶりを見て、良心や価値観のシステムが脳外にあるルールブック(たとえば聖書)と強固に同期されているというのは恐ろしいことだと思った。ジャネットがいくら母の心に自分の気持ちや希望について語りかけても、母の脳にインストールされているルールブックに反している限り、絶対に娘を受け入れることができないのである。変化に開かれていなければ、他者を受容することは極めて困難である。

 

それにしても、マジックリアリズム的に差し挟まれるおとぎ話のようなパートが、なんとなく余計な感じがするのは私だけか。

『マイケル・K』ジョン・マックスウェル・クッツェー

豊かな時間だった。『恥辱』で、加害者の孤独を描く冷たい文体に魅了されて以来、気になっていたクッツェーの代表作『マイケル・K』をようやく読了。読後感はまさに「平穏」のひとことに尽きる。 

マイケル・K (岩波文庫)

マイケル・K (岩波文庫)

 

 内戦中の南アフリカで、マイケル・Kという「頭の弱い」子どものような40代の主人公が、手押し車に母を乗せて、彼女の生まれ故郷の田舎を目指して旅をする。旅の途中で母が死んでからは、獣のような自給自足や、貧民キャンプへの収容など、過酷な条件の下での生活を送っていく。

 

マイケル・Kが、戦時の南アで、苛烈な暴力にさらされながら、あくまでも自分自身として生きていく様は、自由の所在は究極的には自分自身の中以外にはないことを気付かせる。どんなに身体を拘束しても、それとは逆に深い親愛を寄せても、彼の自由を奪うことは誰にもできない。

 

彼はまるで石だ。そもそも時というものが始まって以来、黙々と自分のことだけを心にかけてきた小石みたいだ。その小石がいま突然、拾い上げられ、でたらめに手から手へ放られていく。一個の小さな石。周囲のことなどほとんど気づかず、そのなかに、内部の生活に閉じこもっている。こんな施設もキャンプも病院も、どんなところも、石のようにやりすごす。戦争の内部を縫って。みずから生むこともなく、まだ生まれてもいない生き物。(p.209)

 

私たちはあまりにもおしゃべりで、自分自身のことが全然わからなくなっている。

 

 

追記

先日、知人にハーマン・メルヴィルの『バートルビー』を貸したのがきっかけで、バートルビーについてなんとなく調べていたところ、マイケル・Kとバートルビーの類似性への指摘を見つけて、なるほどと納得した。日陰(バートルビー)と日向(マイケル・K)ぐらい正反対のイメージの物語だけれど、確かに似ている。

『長距離走者の孤独』アラン・シリトー

短編はそれほど好んで読まないけれど、古本屋でたまたま見つけ、タイトルは知っていたので「表題作だけでも読むか」と期待もせず買ったら、あっという間に全部読んでしまった。 

長距離走者の孤独 (新潮文庫)

長距離走者の孤独 (新潮文庫)

 

 8篇の全作を通じて「孤独」というテーマが漂う。具体的なストーリーの中に、登場人物たちのいかんともし難い(しばしば貧困の香りのする)悲しみや、それを内に秘めながらしたたかに生きていく姿が描かれる。

 

表題作「長距離走者の孤独」では、感化院に入れられた不良少年スミスがマラソンの練習に励み、皆の期待を背負って大会に出場する。しかし、ゴールの直前で走るのをやめ、自分が中指を突き立ててきた感化院のお偉方に「誠実とはどういうことであるか」を示す。

 

おれにもクロスカントリー長距離走者の孤独がどんなものかがわかってきた。おれに関する限り、時にどう感じまた他人が何と言って聞かせようが、この孤独感こそ世の中で唯一の誠実さであり現実であり、けっして変わることがないという実感とともに。(p.56)

 

スミスにとっての誠実さとは、自分自身の主義主張と行動を一致させ、その結果を受け入れて生きることである。

 

「もっと賢くやろうよ」と思う。ゴールしてしまえば、日々の感化院での現実的な待遇が改善するのだから。しかし、スミスは自らの「誠実さ」を優先する。そして、権力に繰り返し押しつぶされてボロボロになっていく。この姿勢に対して「若さ」と言って距離を置きたくなるのは、自分の毎日には、もはや生活哲学となった諦念があるからかも知れない。

 

他作については、「知能の遅れた」20代のフランキーと、彼の戦争ごっこの軍隊に入って幼年期を過ごした主人公の物語、「フランキー・ブラーの没落」が心に残る。

 

シリトーの物語には説得力のあるリアリティと、切実さを感じる。解説にもあるが、シリトーは彼の主人公たちと同じく労働者階級の出自で、自分も一人の工場労働者として生きた。これは、シリトーと同じく「怒れる若者たち」と呼ばれた文壇の一派の作家たちのほとんどがオックスフォードなど名門大学の出であったことと大きく異なっているという。

 

もう一回、最初からじっくり読みたい。